田村潔司
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田村潔司 | |
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基本情報 | |
あだ名 | Uの遺伝子を継ぐ者 赤いパンツの頑固者 孤高の天才 |
階級 | PRIDEミドル級 |
誕生日 | 1969年12月17日 |
出身地 | 岡山県岡山市 |
現在地 | 日本 |
スタイル | レスリング(U-STYLE) |
戦績 | |
総試合数 | 22(リングス、PRIDE) 06/02/27現在 |
総勝利数 | 13 |
KO勝ち | 2 |
一本勝ち | 4 |
判定勝ち | 7 |
総敗北数 | 9 |
KO負け | 3 |
一本負け | 3 |
判定負け | 3 |
引き分け | 0 |
無効試合 | 0 |
田村 潔司(たむら きよし、1969年12月17日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家である。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] UWF
岡山理科大学附属高等学校卒業後1988年に第二次UWFに入団し、1989年5月21日に鈴木実(現・鈴木みのる)戦でデビューを果たすが、デビュー早々前田日明との対戦で膝蹴りをくらい眼窩底を骨折、一年の欠場を余儀なくされた。骨折からの復帰直後にUWFは解散。
[編集] UWFインター
UWF崩壊後、UWFインターに籍を移し、頭角を表す。 1992年5月にはボクシング世界ランカーのマシュー・サード・モハメッドを秒殺。 同年末にはルー・テーズの指導を受けるために渡米。 しかし93年に旗揚げしたパンクラスの影響によってシュートへの渇望を募らせる一方で、ベイダー参戦に見られるUWFインターのプロレス回帰にジレンマを感じ、垣原賢人を相手にパンクラスへのオマージュのような試合を行った。 1995年6月にゲイリー・オブライトと不可解な試合を行い、高田の参院選出馬後はエースとしてメインを務め、試合後のコメントでは高田への反感を露にする。8月にオブライトと再戦、勝利した直後に客席にいた高田へ「真剣勝負で闘って下さい」とアピール。しかし実現することなく、UWFインターは新日本プロレスとの対抗戦へと突入。田村は抗争に参加せず、12月にはK-1のリングでパトリック・スミスと対戦し、ヒールホールドで一本勝ちを収める。
[編集] リングス
1996年に大方の予想を覆しパンクラスではなくリングスに移籍。 順調に勝ち星を重ね、前田日明の引退後はエースとして活躍し、「回転体」と称されるスピード感溢れる試合でファンを魅了した。 1999年4月には当時UFCミドル級王者だったフランク・シャムロックと対戦。ドロー。 2000年2月にはキング・オブ・キングス決勝トーナメント1回戦でヘンゾ・グレイシーに判定勝ちを収めた。 しかし連戦への不満や契約による専属拘束などを巡って前田と反目、2001年にリングスを退団。 リングス時代にはネットワーク所属選手のほか、レナート・ババル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、パット・ミレティッチなどと激闘を展開した。
[編集] U-FILE&PRIDE
総合格闘技ジム・U-FILE CAMPを主宰。PRIDEのリングにも参戦している。2002年11月24日には高田延彦の引退試合の相手を務めた。田村に対してあまりいい感情を持っていないといわれるUWFインター時代の後輩桜庭和志から、数度にわたって対戦要求が出されているが、田村はことごとく拒否。田村の真意がどこにあるのか一部の格闘技ファンの間で物議をかもしている。また、U系ファイトスタイルのプロレス興業U-STYLEを主催している。
2006年2月26日、PRIDE31でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ選手と対戦したが、何もさせてもらえないまま腕十字固めで敗れた。
[編集] タイトル歴
- リングス初代、第3代無差別級王者
- U-STYLE初代チャンピオン