王凌
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王凌(おうりょう、172年-251年)は、魏の武将。董卓を暗殺した首謀者・王允の甥(弟の次子)。字は彦雲。子に王広・王飛梟・王金虎・王明山(いずれも飛梟・金虎・明山などは字で、名は不詳)。また兄に王晨がいる。
[編集] 略歴・人物
演義では登場しない人物である。192年に叔父・王允が李傕らによって殺害されると、兄・王晨と共に城壁を乗り越えて、郷里の太原郡祁県(現/山西省太谷県)に逃げ戻った。後に茂才に推挙され、発干県長・中山太守を歴任した。やがて曹操に認められて中央に進出し仕えた。そして、張遼・曹休らの配下に入り、呉討伐で活躍した。
249年、甥の令孤愚と共に魏の皇帝・曹芳の廃位を企み、楚王曹彪の擁立を企てた。曹芳が年少で頼りなく、司馬懿のような権臣が勢力を振るうので、年長の曹彪に代えようとしたのである。長子の王広が激しく諫めたが、王凌は取り合わなかった。令孤愚の死後も計画を進めたが、251年、司馬懿に察知されて失敗し、降伏した。その後、司馬懿が自分を誅殺するつもりであることを悟り、護送の途中賈逵を祀った廟の前を通りかかると、「梁道(賈逵の字)どの、この王凌はもとより魏の社稷に忠実な男です。あなたに神格があるのなら、ご存知のはずです」と叫んだという。そして、都に護送する途中で王凌は項という所で服毒自殺した。齢80。やがて、計画を諫めた長子の王広らと孫・曾孫らを含めて、王凌の三族は処刑された。
『世語』によると、王凌の妹は、郭淮の妻である。彼女もまた兄・王凌に連座して誅殺されかけたが、彼女の子である郭統ら五人の息子が涙を流しながら地面に額を叩いて血を流して、生母の助命を哀願していたという。事の重大さを覚った父・郭淮は司馬懿に「五人の息子は母を憐み、もしこの母に死を賜れば彼等はその後を追うことでしょう。五人の息子を亡くせば、(私である)淮もすぐに妻の後を追うことでしょう」と言上したため、こうして彼女は助命されたという。