玉乃海太三郎
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玉乃海 太三郎(たまのうみ だいさぶろう、本名:三浦 朝弘(みうら ともひろ)、1923年1月2日 - 1987年9月27日)は、大分県大分市出身で二所ノ関部屋の元大相撲力士。本名は三浦朝弘。
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[編集] 来歴
[編集] 現役時代
玉錦の一行が巡業に来たのを見て力士になることを志望した。最初本人は双葉山への入門を希望したが玉錦に入門、1937年(昭和12年)5月場所初土俵。四股名は福住。
幕下だった1940年(昭和15年)に上海で巡業が行なわれた時のこと、酒と食事を振舞われた後に宿舎に帰ろうと黄包車(ワンポーツ、タクシーのようなもの)を止めたが酔っ払っていたことを理由に乗車拒否される。酒癖の悪い福住は怒って運転手を引きずり降ろしケンカを始める。そこへ憲兵数名が駆けつけるが悪いことに彼らも酒を飲んでいた。いきなり軍刀の鞘で殴られて激怒した福住は何とその憲兵全員を叩きのめしてしまう。鬼より怖い憲兵とケンカしてしかも倒してしまったのだ、そこへ今度はしらふの憲兵が駆けつけて銃を抜く。これは言うまでもなく銃殺を意味する。このためあわや消されるかというところだったが当時大関の羽黒山と師匠玉錦亡き後に二所ノ関を継いだ玉ノ海が懸命に詫びを入れどうにか許された。その代わり協会から破門することが条件とされてしまった。流石に逆らえず除名。
1942年(昭和17年)1月に海軍に召集され各地を転戦、1週間以内に死ぬような患者ばかりいる病棟に入ったこともあるがどうにか助かりその後はソ連との国境に連れて行かれた。シベリアで捕虜となったが脱走して帰国。
1950年(昭和25年)に師匠玉錦の夢を見たという。するとその翌日に師匠から破門を解くから戻って来いと言われて復帰、幕下格で帰参した。兄弟弟子神風には儂がやめる時になって帰って来たのかと言われたらしい。1952年(昭和27年)9月場所新入幕。1953年(昭和28年)5月場所2日目に命の恩人羽黒山と対戦、高熱を出していたが出場し見事に勝って恩を返した。これが結果として羽黒山最後の土俵になった。
1956年(昭和31年)9月場所小結で9勝6敗、殊勲賞を獲得、その後関脇で2場所連続11勝4敗、殊勲賞と敢闘賞を1回ずつ受賞し大関目前だったがマラリアにかかり無念の2場所連続休場、14枚目まで落ち再起をかけた九州本場所、後援会より贈られた金色のまわしを締めて土俵に上がる。理事長の時津風からまわしの色にも規則があるからだめだと指摘されるがこの場所を最後と覚悟を決めていることを話すと特別に許可を得ることができた。この場所は見事全勝優勝、千秋楽に引退発表を考えていたそうだが慰留され現役続行となった。この優勝により第1回九州本場所での優勝力士として名を残すことになったが実は前年の九州準場所でも優勝しているため事実上の九州場所2連覇だった。
栃錦にはめっぽう強く通算対戦成績は玉乃海11勝、栃錦16勝。これはかつて栃錦に初顔から2連敗した時に勝ったら懸賞を出すと言われたことがあるせいか。取り口は四つ身からやぐら投げを放つなど豪快そのもの、「荒法師」の異名をとった。
[編集] 年寄時代
引退して年寄・片男波を襲名、内弟子を連れての二所ノ関部屋からの分家独立を考えていたが二所ノ関(大関・佐賀ノ花勝巳)が許さず、1962年5月場所前には、内弟子を連れて部屋を飛び出す実力行使まで行なった。すると怒った二所ノ関は成年に達した養成員全員分の廃業届を書く。どうにか取り消されたが両者とも減給処分。結局その後、先代の二所ノ関である玉の海を呼んでの話し合いの結果独立は許された。
しかし1971年(昭和46年)10月11日、あろうことか部屋頭でありかつ最も有望な弟子である横綱玉の海が現役のまま亡くなるという不幸に見舞われる。停年目前の1987年(昭和62年)9月27日没。この日は玉の海17回忌が行なわれる予定だったという。
[編集] エピソード
[編集] 酒豪
玉乃海は酒が大好きだった。しかし憲兵とのケンカ騒動に代表されるように酒癖が悪く酔うと暴れたりケンカを売ったりする癖があったという。本気で怒ると力士以外では止めることができず警察も困っていた。ある時は線路で横になるとそのまま眠ってしまい見つけた列車の運転士の通報で駆けつけた力士が運転士に頭を下げて連れ戻した。しかし弟子の玉乃島が横綱を見送られた時には本気で禁酒を考えたという。
[編集] 主な成績
- 幕内通算:200勝160敗1分30休
- 幕内在位:29場所
- 幕内最高優勝 1回(全勝優勝)
- 優勝次点2回