狩野正信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
狩野正信(かのうまさのぶ、 永享6年(1434年)? - 享禄3年7月9日(1530年8月2日)?)は、室町時代の絵師で、狩野派の祖である。
狩野派は、室町時代から明治に至るまで400年にわたって命脈を保ち、常に日本の絵画界の中心にあった画派であった。この狩野派の初代とされるのが、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信である。古記録から、正信は寛正4年(1463年)には京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったと思われる。没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没したことになる。
[編集] 生涯
正信の出自については、伊豆の人狩野宗茂の末裔との伝承もあるが、(1)正信やその子・元信の縁者が下野(しもつけ、現栃木県)方面に見られること、(2)栃木県足利市の長林寺に正信の初期作品である『観瀑図』が残ること、(3)前記『観瀑図』に「長尾景長公寄進」との外題があることなどから、狩野正信は下野方面の出身で、足利長尾氏と何らかの関係があったものと推定されている。
京では幕府御用絵師の宗湛(小栗宗湛)に師事したものと思われる。文明15年(1483年)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。
現存する作品中では、中国の故事を題材にした『周茂叔愛蓮図』(しゅうもしゅく あいれんず)が代表作と見なされている。他に九州国立博物館蔵の『山水図』双幅、個人蔵の水墨の『山水図』、個人蔵の『崖下布袋図』などが古来著名である。大徳寺真珠庵の『竹石白鶴図』(六曲屏風1隻)も印章等はないが、古くから正信作とされている。
画風は、現存作品から見る限りでは漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法によるものが多いが、なかで『周茂叔愛蓮図』は画面上半分に余白を大きく取り、近景の柳の大木の緑が印象的な平明な画面で、他の作品とはやや異質な感がある。また『文殊菩薩図』(群馬県立近代美術館)のような仏画の遺品もあり、職業絵師として、多様な画題、画風をこなしていたものと思われる。