溝口直正
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溝口 直正(みぞぐち なおまさ、安政2年[1]2月25日(1855年4月11日) - 大正8年(1919年)10月17日)は幕末維新期の大名。華族。越後国新発田藩の第12代藩主(最終)。11代藩主溝口直溥の四男。幼名は誠之進。大名としての官位は従五位下伯耆守。維新後は伯爵。位階はのち従二位まで昇進した。母は直溥の側室で西村氏の娘。正室は旧近江大溝藩主分部光貞の娘久爾子。
[編集] 経歴
安政2年(1855年)新発田で誕生。慶応3年(1867年)8月28日、父溝口直溥の隠居に伴い家督を継ぐ。同年10月、諸大名に上京が命じられるが、幼少のため名代として家老窪田平兵衛が京都に赴く。同4年(1868年)2月、藩兵を上京させ御所警衛を行う。のちにこの藩兵は東征軍参加を命じられた。同月直正は江戸を発ち翌月新発田に入る。5月、周辺諸藩の圧力もあり、やむなく新発田藩は奥羽越列藩同盟に参加。しかし領民の蜂起等もあって新発田藩兵の行動は不徹底であり、これを憤った同盟側は新発田城に兵を向け、藩主直正を下関(現新潟県関川村)の米沢藩本営に呼び出して人質に取ろうとしたが、これまた領民の蜂起にあって直正の下関訪問は阻止された。この間同盟側の要求を受けて藩兵を同盟軍につけることとなり、新発田城攻撃は回避された。7月、新政府軍が軍艦で領内に上陸すると、直正は家老らとともに新政府軍の軍艦に同乗して柏崎の本営に至り、総督宮に拝謁して三条まで供奉した。これ以後新発田藩兵は一転して新政府側として行動することとなる。戦争終結後、新発田城には総督府本営が置かれ、藩兵も各地の警衛にあたった。
明治元年(1868年)11月、直正は東京に至り明治天皇に拝謁、12月に従五位下伯耆守に叙任された。同月、上知された米沢藩などの旧領の預かり支配を命じられる。明治2年(1869年)6月、版籍奉還が容れられ知藩事となる。明治3年(1870年)4月には領内巡視を行う。7月には9万石に及ぶ大規模な村替えを命じられる。この間積極的な藩政改革が進められるが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県により直正は知藩事の職を免ぜられ、以後東京に住む。
知藩事免職後は一時宮内省式部寮に出仕した。明治17年(1884年)には華族令により伯爵となる。大正8年(1919年)10月17日、東京において数え年65歳で歿。[2]
[編集] 子女
- 長男溝口直亮は家督を継いで伯爵。陸軍少将、陸軍政務次官、貴族院議員などを勤める。
- 次男大倉直介は建築技師、実業家。新発田出身の実業家大倉喜八郎の妹の養子となり、大倉分家を継承。
- 三男前田利男は旧越中富山藩主前田利同の婿養子となり前田伯爵家を継承する。
- 四男溝口辰男は池之端溝口家の分家を継承する。
- 六男溝口三郎は美術史家。叔父溝口武五郎の養子となる。
- 長女大倉久美子は実業家大倉喜七郎(大倉喜八郎の子)の夫人となる。
この他にも側室の子などが数人居る。