満寵
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満寵(まんちょう、170年?-242年)は、魏の武将。字は伯寧。満偉の父。満奮の祖父。
山陽郡昌邑県の人。18歳のとき、県の役人となったが、上司であった張苞の横暴を見て、これを逮捕した。そしてその責任を取って、自ら官職を捨てて帰郷したのである。このように、満寵は誰に対しても公明正大で、身分の上下など関係なく法を厳守する厳しい一面があった。しかし、気さくで質素であり、傲慢なところが無かったため、疎まれることは無かったといわれている。
劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となる。当時、楊奉の配下であった徐晃を説得して曹操陣営に引き入れたり、曹洪配下の武将が曹操一族の権勢をかさにきて略奪を行なったときは、逮捕して有無を言わせずに処刑した。そして、この功績を曹操に大いに賞賛されたのである。曹操の晩年は曹仁の参謀として呉や蜀の抑えに務め、219年に関羽が攻めてきたときは、曹仁と協力してこれを撃退した。
曹丕の代には伏波将軍・南郷侯・前将軍と昇進し、新野の防衛を任された。曹叡の代には昌邑侯・豫州刺史となり、呉の抑えに務めた。234年、諸葛亮に呼応して呉の孫権が攻めてきたときは、これを撃退している。この功績により、征東将軍となった。
曹叡死後は曹芳に仕えるなど、曹操時代からの宿老の中でも司馬懿を除けば、曹氏四代に仕える古株となった。この功績により、太尉にまで昇進したが、晩年は王凌の讒言を受けて失脚しかけるなど、その存在とそれまでの功績を疎まれるという不遇な一面もあった。しかし、孫資によってかばわれ、事なきを得ている。
三国志演義では記述がそれほど多くもなく、影の薄い印象を与えられるが、それは彼に主として与えられた任務が対呉政策で、蜀に相対する場面がほとんどないからで、「満寵がもし蜀方面の司令官であればカク昭と同じくらいの評価を得られていたかもしれない」という人もいる。