楊奉
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楊奉(ようほう、153年?-197年)は、後漢末期の人物。李傕の部将。性格は勇猛であるが、思慮が浅い人物と評された。また、曹操などは彼の軍勢が精強だったと言っている。
元々は黄巾党の一派である河東の(現/山西省南部)白波賊の頭目で、後に仕官して李傕に仕えたが、李傕の政治に疑問を抱き、同僚の宋果と共に李傕暗殺を謀った。だが、暗殺計画は失敗して宋果が李傕によって処刑されたため、楊奉は李傕の下を離れて独立した。この時、部下の徐晃も共に従っていたという。
後に献帝が跋扈政治を行なう李傕の下から脱出して洛陽に落ち延びる時、下野していた楊奉は部下の徐晃と共に献帝に協力して李傕軍と戦った。当初、官軍は李傕軍に散々に破れ、楊奉は古巣である白波賊で旧友でもある頭目の韓暹(以降も最期まで楊奉は韓暹と運命を共にする)の救援を頼るまで追い込まれたが、楊奉が李傕と和睦を結んだため、李傕は追撃を中止し、安全に献帝を洛陽に連れて行くことが出来た。
この功績から車騎将軍に任命されたが、洛陽に駆けつけた曹操が献帝を擁立して李傕のように権力を握ろうとしたため、曹操と対立。曹操と楊奉の対立は武力抗争に発展するが、同僚の董承、鍾繇ら、部下の徐晃までもが曹操に降り、曹操との争いに敗れたため、袁術の下へ落ち延びた。
その後は、袁術の武将として呂布と戦った。だが、197年夏に袁術が帝位を僭称したため、楊奉は韓暹と共に陳珪の説得に応じて、呂布に帰順して袁術軍を大敗させた。その後、楊奉は韓暹と共に海西(楊州・徐州境目)周辺に駐屯していた。だが同年末に、呂布の襲撃を受けて逃げて来た劉備が両人の軍勢を奪う目的のために、楊奉は韓暹と共に劉備の偽りの酒宴に招かれて、騙し討ちされて惨殺された。