浪岡氏
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浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は陸奥の国司の一族。村上源氏の一族北畠家の流れを汲む名門であり、室町時代には浪岡御所と尊称された。
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[編集] 出自
北畠氏の庶流に当たる大身で、南北朝時代に陸奥の国司として下向した北畠顕家の子孫が、陸奥の津軽地方を支配したことから始まるといわれている。または顕家の弟である北畠顕信の末裔ともいわれる。
[編集] 南北朝時代・室町時代
後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した顕家の時代には、二度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が二度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も傘下の武士の離反や奥州管領の吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。戦国期に登場した具永(後述)までの歴代当主の事跡ははっきりしてはいない。
[編集] 戦国時代
名族に当たることから、戦国時代に入っても『浪岡御所』と呼ばれて、陸奥の諸大名から尊敬されたという。また、京都の公家とたびたび交流を持ち、陸奥の地に小京都と呼ばれるほどの貴族文化を花開かせた。そして京都の公家たちとの交流が深かったことから、浪岡北畠氏の歴代当主は侍従や左中将など、高位の官位を歴任したという。
16世紀前半に名君・北畠具永が現れて浪岡北畠氏は全盛期を迎えたが、その子・北畠具統の頃から文化面で奢侈に走ったために財政的に困窮し、次第に衰退しはじめた(なお、具統は具永に先立って若死したという説もある)。そして具統の子・北畠具運の時代に一族内部で家督と領地をめぐっての抗争が勃発し、1562年に川原御所の乱か起き、具運は一族の川原御所 北畠具信に殺されてしまう。これにより浪岡北畠氏の衰退は決定的となった。
その後、具運の子・北畠顕村が後を継いだが、戦国大名として独立を図る津軽為信に攻められて領地と居城(浪岡城)を奪われて、ここに国司としての浪岡氏は滅亡してしまったのである。