河井寛次郎
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河井寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。彫刻、デザイン、書、文筆などの分野でも優れた作品を残している。
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[編集] 学校での研究
当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。松江中学(現島根県立松江北高等学校)を経て、1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。1914年卒業後、京都市立陶芸試験場に入所し、2年後入所した東京高等工業学校の後輩・濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ制作を開始した。
[編集] 華麗な作風からの転換
1921年、「創作陶磁展覧会」を東京と大阪の高島屋で開催した。中国・朝鮮の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表、新進陶芸作家として一躍注目を浴びた。しかしやがて世評と反比例するように自身の制作に悩むようになった。柳宗悦が紹介していた日用品としての李朝陶磁展を見たこともさらに悩みを深めるもととなり、制作を中断する。1924年、イギリスから帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・スリップウェアを見せられ、濱田から柳を紹介されてその影響を受け、日用の実用的な陶器制作を新たな目標とした。
[編集] 民芸運動、日用の美へ
1926年、柳、濱田とともに日本民藝美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民芸運動」にかかわるようになる。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では古典から日用の器へと路線を変更した。彼は各地を訪れて見た手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用重視の簡素な造形に自在な釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、彼は作家としての銘を作品に入れないようになった。
室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して1937年に完成させた。この自宅兼仕事場が現在、河井寛次郎記念館になっている。同じ年、作品がパリ万国博覧会でグランプリを受賞している。
[編集] より奔放な作風へ
第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた彼は木彫の制作も開始する。また陶の造形も大胆に変化し、日用の器の形から、簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるようなものを残している。またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が枯れることはなかった。
1955年に文化勲章を辞退して、人間国宝・芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。 最晩年まで創作を行い、1966年76歳で没した。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 『火の誓い』 河井寛次郎 講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ ISBN 4061963732
- 『陶工 河井寛次郎』 橋本 喜三 朝日新聞社 ISBN 4022585803
- 『アサヒビール大山崎山荘美術館 図録』
- 『河井寛次郎作品集―京都国立近代美術館所蔵川勝コレクション』