江戸氏
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江戸氏(えどし)は日本の氏族の一つ。歴史上、武蔵と常陸で勢力を振るった氏族が有名である。
[編集] 武蔵江戸氏
平安時代の末に秩父重綱の四男重継が武蔵国江戸郷を相続し、「江戸四郎」を称したのが始まりとされる。重継は現在の皇居の本丸、二の丸周辺の台地城に居館を構えたという。重継の子重長の代になると御家人として鎌倉幕府に仕えるようになる。南北朝時代になると武家方につき、長門は畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わる。
その後江戸氏は衰退し、庶流といわれる喜多見氏が世田谷吉良氏に仕える。やがて、主家世田谷吉良氏やさらにその主家である後北条氏が豊臣秀吉に攻められると没落した。喜多見勝忠が江戸に入府した徳川家康に仕え、世田谷喜多見に所領を与えられる。喜多見重政は将軍綱吉の寵臣として大名に列するようになり、喜多見藩を立藩する。しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然失脚し、所領を没収されて大名である喜多見氏は滅びた。
江戸氏の居館跡はのちに、長禄元年(1457年)太田道灌が江戸に封じられた後江戸城として整備された。太田氏の江戸城はやがて北条氏の支配下に置かれる。その後徳川家康が本拠地を置き、徳川幕府が代々整備し、維新後は宮城となり現在の皇居となった。
[編集] 常陸江戸氏
常陸の江戸氏の前身である那珂氏は平安時代末期に那珂郡に本拠地を置き、常陸の豪族として栄えた。しかし、南北朝時代になると、宮方につき、一族の殆どが没落する。しかし、那珂氏の一族である那珂通泰は武家方につき、那珂郡江戸郷を封ぜられ、子の通高の代に江戸氏を称するようになる。通高は守護佐竹義篤(佐竹氏第九代当主)の娘を娶り、度々軍功をあげた。道景は本拠地を河和田(現水戸市内)に移す。その子通房の代には上杉禅秀の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏についた通房は、禅秀方に味方して共に没落した大掾氏の一族の馬場氏の拠点である馬場城(後の水戸城)の近辺に所領を得た。大掾満幹はその後も馬場城を保持し続けたが、応永33年(1426年)に馬場城を留守にした隙に、通房に馬場城を攻め落とされた。以降江戸氏は馬場城(水戸城)を本拠地として那珂川中下流部で勢力を振るう。その後、守護佐竹氏の内部で山入の乱と呼ばれる内訌が発生すると積極的に介入し、佐竹領にも進出するようになる。戦国時代に入り、佐竹義舜が山入氏を滅ぼすことにより佐竹氏の内訌が収まり、それとともに江戸氏の北進は止まる。江戸通泰は佐竹氏に臣従の姿勢を見せたものの、独自の勢力を保ち、古河公方家の家督争いなどで混乱が続く常陸西部及び南部に進出する。江戸忠通・江戸重通は佐竹義重と同盟を結び、佐竹氏は南奥に、江戸氏は常陸南部にそれぞれ積極的に進出する。重通は府中に拠点を置く大掾氏を激しく攻めたてた。
天正18年(1590年)小田原の役がおこり、豊臣秀吉は小田原城を包囲し、関東、東北地方の諸氏に参陣を命じた。佐竹氏は後北条氏と対立し、秀吉と結びついていたことから参陣したが、後北条氏と結んでいた江戸氏は参陣しなかった。秀吉は佐竹義重に常陸21万貫の所領安堵状を発給する。これを楯に佐竹義重は一気に南下、水戸城を落とす。重通は妻の兄である結城晴朝のもとに逃走する。これにより江戸氏は滅亡した。子孫は結城秀康に仕えたという。