水島廣雄
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水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - )はそごうの元会長、社長で、元東洋大学教授で法学博士である。京都府舞鶴市出身。
[編集] 日本興業銀行時代
1936年に中央大学法学部卒業後日本興業銀行(現みずほ銀行並びにみずほコーポレート銀行)に入行。入行後は当時福島市にあった東北支店に配属。1939年に本店証券部信託課に配属。1953年に「浮動担保の研究」なる論文を執筆し博士学を取得。この論文が後に「企業担保法」という法律に結びつく。この頃に東洋大学の教授、中央大学の非常勤講師を兼務した。
私生活では東北支店時代の1938年に結婚、翌年には男子を儲けたが1943年に協議離婚。その後1945年に陸軍中将の娘である上原静と再婚した。
[編集] そごう入社・レインボーの法則
上原静の兄がそごうの大株主の1人である板谷家に養子に行ったために1958年にそごうに副社長として入社。入社してすぐに経営を圧迫していた東京店(現在のビックカメラ有楽町店)の家賃交渉に乗り出す。正力松太郎という大物相手に当初は罵倒されたが、1959年7月に売上の5%という賃貸料(従来の半分以下)で解決した。この後に正力と親しい関係となり、「有楽町の帝王」と呼ばれるきっかけを作った。
1960年に社長の坂内義雄が死去。取引先の大和銀行出身の副社長との後継争いが勃発した。後継争いはマスコミに取り上げ大宅壮一は「財界松川事件」と命名した。結局大和銀行側の株の持ち方が独占禁止法に触れるとして1962年に水島が社長に就任した。
その一方で当時は大阪、神戸、そして規模が小さい有楽町(東京店)の3店しかなく、「二流デパート」を抜け切れないでいた。有楽町に続く店舗を東京に進出したかったが、都内の出店は年々投資額が増すばかりだ。
そんな中、知人からアメリカの小売業で成功したレインボーの法則なる経営戦略を聞く。レインボーの法則は大都市から一定の距離を置いて虹のように取り囲んで出店すれば成功する戦略。東京から虹のように架けられるラインと言えば国道16号で、これが後のそごうにおける重要な経営戦略となった。1967年3月に4店目となる千葉そごうが開店。この際にそごうの子会社として「株式会社千葉そごう」を設立。会長に水島が就任した。
[編集] ジャパンライン株買占め事件と華麗なる人脈
1972年河本敏夫率いる三光汽船が地場証券を通じてジャパンライン(以下ジ社と略)の株を買い占めている動きが見られた。一方ジ社もメインバンクの日本興業銀行などを通じて防衛策も講じたが、当初50円ほどの株価が900円台にまで跳ね上がる事となった。その間にジ社は児玉誉士夫を調停役として仕向けたが解決の糸口が見つけられなくなった。一方の三光汽船も強引な買占めに対する批判や政府の圧力で動こうにも動けない状況であった。
結局、三光汽船が買い占めたジ社の株は『1株380円』(水島の証言)で売却する運びとなったが、この調停に乗り出したのが水島であった。水島は三光側、ジ社側に人脈を持っていたから解決に結びつけた。
河本敏夫とは三光汽船常務の岡庭博の仲介で知り合った。岡庭と水島は興銀から実業界に転じたため親しい関係であった。一方の児玉との繋がりは児玉と並んで戦後最大のフィクサーと称した大谷貴義(福田赳夫や松下幸之助との繋がりで有名)との関連もある。大谷は福田を総理大臣にするために政財界の大物を招いての茶会を開いていたが、興銀との繋がりが深かった福田との繋がりで茶会に招かれた事もあった。一方大谷は韓国系の暴力団との往来もあり、そこで知り合った児玉との結びつきができる。
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