段谷の戦い
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段谷の戦い(だんこくのたたかい)は三国時代の256年(蜀の延煕19年、魏の甘露元年)に行われた蜀と魏の戦い。
[編集] 戦前
費禕の死後、蜀の衛将軍姜維は大軍を率いての北伐を開始した。253年(延煕16年)、武都より進撃して南安に篭る陳泰を包囲したが、兵糧が尽きて撤退する。翌254年(延煕17年)には隴西へ出撃し、狄道県の李簡が密かに降伏を願い出たのを皮切りに魏の将徐質を破るなどの戦果を挙げ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を蜀に連行した。このとき張嶷が陣没している。
さらに翌255年(延煕18年)には車騎将軍夏侯覇とともに狄道に進出し、洮水の西で雍州の刺史王経を撃破して魏兵数万人を殺した。王経は狄道城に逃げ、姜維はそれを追う。蜀の鎮南大将軍張翼は「追撃すべきではない」と言ったが姜維はこれを聞き入れず狄道城を包囲した。しかし魏の征西将軍陳泰が救援を率いてきたので退却した。
[編集] 段谷の戦い
魏では前年の敗北の損害が大きく、危機的な状況にあった。皇帝曹髦は安西将軍の鄧艾に兵を与え、陳泰とともに軍を雍州・涼州諸方面に駐屯するよう命じた。鄧艾は姜維の行動を先読みし再び北伐すると考え兵を鍛錬し、守りを固める。一方蜀は、姜維が大将軍に就き、鎮西大将軍胡済と連繋して上邽で合流し、魏を破る計画を立てる。だが、肝心の胡済が現れず、さらに鄧艾に動きを読まれたため、段谷で伏兵にあい散々に打ち破られる。なお、三国志演義などでは張嶷はここで陳泰に討ち取られたことになっている。
このとき魏は2桁にのぼる将を斬り、4桁の兵の首級をあげたといわれる。すなわち蜀は精鋭の外征軍とそれを率いる優秀な部隊長の多くを失ったのである。鄧艾はこの働きで鎮西将軍に昇進した。
[編集] 戦後
戦いに敗れた蜀は西方で離叛が相次ぎ、姜維は諸葛亮に習い失策を認めて降格を願い出、後将軍となった。だが、合流地点に到着しなかった胡済については何の責任も問われていない。これは胡済が北伐反対派であり、それを支持していた勢力が蜀の宮廷に少なくなかったからであるとみられている。
その後は翌年諸葛誕が反乱を起こすと姜維は再び軍勢数万を率いて北伐を行った。このとき魏軍は大将軍司馬望が守備を固め、鄧艾が援軍を率いてきた。さらに次の年になって諸葛誕が敗れると蜀軍は戦わず撤退し、姜維は大将軍に復帰している。そして兵力が少なくなった漢中の防衛について守備隊を漢城・楽城まで下げ、敵を深く侵入させて挟撃する作戦をとり、胡済を後方に下げた。しかし、このことが263年の鄧艾・鍾会の侵入に対して脆さを露呈することになる。