橘花 (航空機)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橘花(きっか)は、第二次世界大戦で日本海軍が開発していた航空機。
目次 |
[編集] 概要
戦前から戦後に至るまで、日本が開発できた唯一の純国産ジェット戦闘機である。ナチス・ドイツが開発した世界初の実用ジェット戦闘機・メッサーシュミットMe262に関する技術資料をもとに、海軍が開発した。外観は Me 262 に似ているが、サイズが一回り小さく後退翼ではないなどの違いがある。なお、Me262も厳密な意味での後退翼ではない(後退翼の効果は「衝撃失速を遅らせる」ことにあるが、Me262は「重心位置と翼の揚力中心の位置関係を整える」ために結果として後退翼となった。そのため最高速付近での操縦性は劣悪で、勝手に機首を下げる、引き起こし不能となるなどの悪癖を持っていた)。
試作機は昭和20年6月に完成、8月7日に木更津基地で12分間の初飛行に成功する。10日に燃料を満載しての公式な初飛行が予定された。しかし空襲で中止され、翌11日は悪天候で順延となり、12日に二回目の飛行が計画された。しかし離陸中に滑走路をオーバーランして擱坐。機体を修理中に終戦を迎えた(失敗の原因は補助ロケットの燃焼終了による加速感の減少をエンジン不調と勘違いしたパイロットの高岡中佐が、離陸を中止しようと試みたが停止し切れず、滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損したもの)。
この橘花に搭載されていたジェットエンジンは「ネ-20」と呼ばれ、現在のIHI(石川島播磨重工業)にて設計・製造されたものである。原型は Me 262 に搭載されていた BMW003 である。ドイツへ派遣された伊号第二九潜水艦には実物を含む多くの技術資料が搭載されていたが、この潜水艦はシンガポール出港後に撃沈されてしまった。途中で入港したシンガポールで降ろされ先に飛行機で運ばれた縮尺三面図、ユンカースJumo004Bの実物見学記録のみが日本に届くと言う結果であり、当時ジェットエンジンを製作するのに適切な材料も枯渇していた最中に、たったの1年で低出力ながらも実用運転状態まで製作にこぎつけたことは、まさに国力を超えた技術者達の執念というほかに無い(種子島中佐率いる設計チームはそれまで設計を進めていたネ-130を放棄した形になるが、方向性が間違っていないことを確認して自信を深めたという)。
なお、この名前のネとは「燃焼ロケット」のネである。ネ-20は戦後アメリカ軍に接収され、一部がノースロップ工業研究所の教材となっていたが、展示のために日本に貸与された際に当時の設計者が「ネ-20は俺の息子みたいなものだ、息子を返す親がどこにいる」とアメリカへの返還を拒否した。とんでもない横紙破りであったがノースロップ工業研究所はこれに対し「永久無償貸与」で応え、生まれの地であるIHIに現在も展示されている。これとは別にアメリカスミソニアン博物館にも「ネ-20」2基が展示されている。
製作・中島航空機=完成2機。
[編集] 他のジェット航空機計画
橘花改として戦闘爆撃機だけでなく、レドームをつけた偵察機型、複座型等の派生型も検討された。また、陸軍が計画した「火龍」があるが、双方設計段階で終戦を迎えた。
[編集] 諸元
- 乗員: パイロット 1 名
- 全長: 9.25m
- 全幅:10.00 m
- 主翼面積: 13.20m2
- 自重: 2300 kg
- 全備重量: 3500 kg
- 動力: ネ-20ターボジェット
- 出力: 静推力475㎏
- 最大速度: 676 km/h
- 巡航速度:--- km/h
- 航続距離:1300 km
- 爆装 :800kg
[編集] 文献
- 東條 重道:『橘花と七二四空』、自費出版、1988年
- 前間 孝則:『ジェットエンジンに取り憑かれた男』、講談社、1992年、ISBN 4-06-185204-3
- 屋口 正一:『橘花は飛んだ:国産初のジェット機生産』、元就出版社、2005年
[編集] 関連項目
カテゴリ: 軍事航空スタブ | 試作機 | 大日本帝国海軍航空機