横綱土俵入り
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横綱土俵入り(よこづなどひょういり)とは、大相撲の横綱が本場所の幕内取組前や巡業先などで行う土俵入りである。
土俵入りの型には雲龍型と不知火型がある。それぞれ10代横綱雲龍久吉と11代横綱不知火光右衛門の型が伝えられたものであるとされている。ただし実際には力士によって微妙に異なった型をもっている。また太刀山は現在で言う不知火型の土俵入りを行なっていたが「儂の土俵入りは横綱雲竜の型である」と言っていたため本来は名前が逆であるともいわれる。
横綱土俵入りは幕内の土俵入りが終わった後で太刀持と露払を従えて行う。この役は通常部屋の兄弟弟子(本来は大関でもよいが、大関が務めたケースは、大鵬幸喜の太刀持ちを大麒麟將能が務めたくらいであり、通常は関脇以下の力士)が務めるが、幕内力士でなければならないため、同部屋の幕内力士がいない場合は一門から借りたり、千代の富士が熊ヶ谷部屋の高望山大造を起用したように一門外から選ぶ場合もある。土俵入りでは、概ね、柏手を打ち、四股を踏み、せり上がった後再び四股を踏む。四股を踏むときには観客から「よいしょ」と掛け声が飛ぶ。
露払や太刀持でも部屋がちがえば横綱と対戦することもあるが、対戦する日は土俵入りに参加できない。対戦する日には別の力士に代わってもらうことになる。
- 雲龍型
- せり上がるときに左手を胸のあたりに当て右手を伸ばす。攻守を兼ねた型といわれている。貴乃花光司、朝青龍明徳ら多くの横綱がこちらを選択している。
- 不知火型
- せり上がるときに両手を伸ばす。攻撃型といわれている。この型を選んだ横綱は太刀山と羽黒山は長く活躍したが吉葉山潤之輔(第43代)以降、短命に終わることが続いたため、現在ではあまり見られない。平成以降では旭富士正也、若乃花勝が選んだがいずれも2年足らずで引退している。もっとも、三重ノ海剛司のように雲龍型を選んでいながら短命に終わった横綱もいる。また、隆の里俊英は横綱昇進当時、既に30歳を過ぎていたため、あえて不知火型を選んだとされる。
[編集] 奉納土俵入り
横綱に推挙された後その土俵入りを初めて披露するのが横綱推挙式と共に明治神宮で行われる奉納土俵入りである。奉納土俵入りは毎年の正月に同じく明治神宮で行われる他、伊勢神宮の神宮奉納大相撲や日中平和友好条約25周年記念イベントなどの行事でも行われる。
新横綱誕生の際には、横綱力士碑のある富岡八幡宮への奉納土俵入りと、横綱碑への刻名式も行われる。
[編集] 引退土俵入り
横綱が引退相撲を行なう際に断髪の前に最後の土俵入りを行なう。この時点で現役横綱がいれば露払と太刀持に従えての土俵入りができる。以下に横綱を従えての引退土俵入りを示す。
- 常陸山谷右エ門 露払梅ヶ谷藤太郎 太刀持太刀山峯右エ門
- 栃木山守也 露払西ノ海嘉治郎 太刀持常ノ花寛市
- 男女ノ川登三 露払羽黒山政司 太刀持双葉山定次
- 双葉山定次 露払照國万藏 太刀持羽黒山政司
- 羽黒山政司 露払鏡里喜代治 太刀持千代の山雅信
- 千代の山雅信 露払若乃花幹士 太刀持栃錦清隆
- 栃錦清隆 露払朝潮太郎 太刀持若乃花幹士
- 若乃花幹士 露払大鵬幸喜 太刀持柏戸剛
- 大鵬幸喜 露払玉の海正洋 太刀持北の富士勝昭
- 輪島大士 露払若乃花幹士 太刀持北の湖敏満
- 三重ノ海五郎 露払千代の富士貢※ 太刀持北の湖敏満
- 北の湖敏満 露払隆の里俊英 太刀持千代の富士貢
- 千代の富士貢 露払旭富士正也 太刀持北勝海信芳
- 若乃花勝 露払曙太郎 太刀持貴乃花光司
- 曙太郎 露払武蔵丸光洋 太刀持貴乃花光司
※当時大関
[編集] 関連項目
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