松平昌親
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松平 昌親(まつだいら まさちか)は、越前福井藩の第3代・第5代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 寛永17年4月11日(1640年5月31日) | |||
死没 | 正徳元年9月12日(1711年10月23日) | |||
別名 | 福松、辰之助(幼名)、 松平吉品(よしのり:第5代藩主時) |
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墓所 | 福井県福井市の瑞源寺、 東京都品川区南品川に改葬 |
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官位 | 従五位下、兵部少輔 従四位下、左近衛権少将 |
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藩 | 越前福井藩第3代・第5代藩主 | |||
氏族 | 松平氏(越前松平家) | |||
父母 | 父:松平忠昌、母:浦上氏、 養父:松平光通 |
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兄弟 | 兄:昌勝、光通 | |||
妻 | 正室:森長継の娘・万姫 | |||
子 | 養子:松平綱昌、松平吉邦、松平昌方 |
- 第5代藩主のときの名は松平 吉品(まつだいら よしのり)。
[編集] 生涯
[編集] 第3代藩主・松平昌親として
1640年4月11日生まれ。幼名は福松、辰之助。1645年、兄の松平光通から2万5000石を分与されて、吉江藩を立藩した。1674年、兄で第2代藩主であった光通が自殺した。光通は自殺する直前、家督は昌親に譲るようにという遺言書を残していたが、これが問題となる。実は光通には松平直堅という庶子がいたし、昌親にも兄にあたる松平昌勝がいたのである。このため、家督争いが起こった。順序からいけば直堅が後を継ぐはずであるが、この直堅は光通時代からその存在が問題視されていたし、光通の遺言があったからである。しかし藩士50人ほどが前藩主の息子であるということで、直堅を擁立しようと画策したのである。これに対して家老の芦田図書は、亡き光通の遺書を幕府に提出して、昌親の家督相続を望んだ。幕府はこれを認め、第3代藩主には昌親が就任することとなったのである。このとき、吉江藩は廃藩となり、その所領は福井藩に併合された。
しかし藩内では昌親の家督相続に不満を抱く者も少なくなかった。このため昌親は在位2年後の1676年7月21日、家督を兄・昌勝の長男・松平綱昌に譲って隠居したのである。
[編集] 第5代藩主・松平吉品として
家督を譲ったことで第4代藩主となった綱昌は、発狂して家臣を殺すようになった。これを幕府に咎められて、福井藩は改易・廃藩となる。しかし福井藩は結城秀康以来の名族であるということから特別の配慮を受けて、前藩主であった昌親が所領削減の上での25万石を相続することで、家督を継いで藩主に再任することが認められたのである。このとき、昌親は名を昌明、そして後に吉品と改名している。そして吉品は綱昌時代に乱れた藩政の再建を目指した。
まず、2000人近い家臣のリストラを断行し、さらに家老クラスから下級武士まで家禄を減らした。また、藩札を新たに発行して法令の整備などにも努めた。藩の格式の整備にも努めた。
吉品には嗣子が無かったため、はじめは毛利綱広の次男・松平昌方を養子として家督を譲ろうとしたが、家臣団の反対により昌方を離別し、兄の昌勝の六男・松平吉邦を養子として1710年7月5日、家督を譲って隠居した。1711年9月12日、72歳で死去した。
なお、福居と呼ばれていた名を福井と改名したのは、吉品である。