李左車
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李左車(りさしゃ 生没年不明)は中国秦末から前漢初期の武将。
趙の軍師として漢の劉邦と敵対し、漢の別働隊の韓信と井陘の戦いで戦い敗れた。 三十万と号する大軍を擁した趙であったが、戦いに臨んで李左車は宰相の陳余に、狭い地形を利用して本隊で守りつつ別働隊で韓信を襲うことを献策したが、陳余は却下した。趙に内偵を送っていた韓信は李左車の策が容れられなかったことを知って大いに喜び、敢然と攻め入った。結果、隘路を越えて背水の陣を採った韓信に趙軍は敗れ、陳余は斬られ、李左車は捕虜となった。
戦後、韓信は李左車を師と仰いで燕と斉を破る方法を尋ねたところ、李左車は恥じ入って「敗軍の将、兵を語らず」(敗軍之将、不可以言勇)と応えた。なおも聞く韓信に李左車は、兵を休ませ趙を鎮定した後に趙の遺民で燕を攻め、かつ利を説いて懐柔すること、また同じように斉に当たるという策を授けた。後に韓信は李左車の策を用い、燕王藏荼を服従させた。
その後も韓信の食客として仕え、楚漢戦争の最終局面となる垓下の戦いに先立っては、彭城から項羽をおびき出すために、楚に偽りの投降をした。李左車の勧めで項羽は彭城を出て、彭越とともに兵を進めた韓信らに追い詰められることとなった。