木村吉清
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木村吉清(きむらよしきよ、? - 慶長3年(1598年))は戦国時代・安土桃山時代の武将。伊勢守。光清。
[編集] 概略
明智光秀家臣。荒木村重に仕えていたが、いつのころか、光秀の家臣となる。山崎の合戦後に秀吉に取り立てられ家臣となった。亀山城受け取りの際の手際が良かったことを大政所に気に入られ、取り立てられたという説がある。石高は5千石。太閤検地の奉行として功があり、子息清久が秀吉の側近として活動していることから、文官と思われがちだが天正18年(1590年)の奥州仕置では名淵などの戦いで敵軍を撃破、大将首を取る武功を立てている。この戦功で旧大崎・葛西領(現在の宮城県北部と岩手県南部)12郡約30万石を与えられた。しかし、検地を実施して年貢を厳しく取り立てたことや旧大崎・葛西家臣の地侍等を家臣に採用せず、これへ刀狩をおこなったこと、さらには浪人から登用されたり足軽・中間などから俄に侍に出世した吉清の家臣が領民に乱暴狼藉を繰り返したことなどから領内に一揆が起きた(葛西大崎一揆)。吉清は一揆勢によって居城の寺池城を追われ、佐沼城に立て籠もった。やがて領内の諸城も一揆勢によって落城し、吉清は子息・清久とともに佐沼城へ閉じこめられる形となってしまった。やがて蒲生氏郷と伊達政宗が援軍として駆けつけ、一揆勢は退散し、吉清父子はようやく窮地を抜け出すことができた。しかし、一揆発生の責任を問われて領地は没収されてしまった。
その後、吉清は蒲生氏郷の客将となり、文禄元年(1592年)に信夫郡(現在の福島市)5万石を与えられた。吉清は居城を大森城から杉目城へ遷し、杉目を福島と改称した。そのため、今日の福島県の名付け親は吉清ということになる。慶長3年(1598年)に蒲生氏が宇都宮へ移封になると、吉清は蒲生氏を離れて新たに豊後国に1万5千石を与えられた。しかしその年に死去した。