葛西氏
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- 支配地は、広大な葛西御厨である。
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[編集] 概要
葛西氏の系図は現在(2006年)をもってしても極端な話、初代当主・葛西清重と第17代当主・葛西晴信以外は、誰が正式な当主であったかは、正確な事は判明していない。
その理由として、
- 葛西氏が代々内紛が絶えなかった事。
- 「寺池系葛西氏」と「石巻系葛西氏」がそれぞれ宋主家を主張した事。
- 伊達氏をはじめ、養子縁組等で葛西氏に介入した大名が、介入の正当性を主張した事。
- 豊臣秀吉の奥州仕置き、葛西大崎一揆で葛西氏が所持していた史料が散逸してしまった事。
が原因に挙げられる。
葛西氏の系図は現在、判明している物だけでも二つの系統(俗に言う、葛西氏A系統と葛西氏B系統)を中心に30以上存在し、それぞれが歴代当主の名前、順番が初代と17代以外はバラバラであり裏付け史料が極端に少ない。
鎌倉時代、清光・清重親子は源頼朝の挙兵に従って平家討伐に参加し、葛西清重は奥州総奉行として陸奥国に所領を得た。奥州に入った際、奥州藤原氏の本拠地である平泉に本拠を構えたのではなく、石巻の日和山に本拠を構える。この頃の葛西氏の正確な動性は伝わっておらず、石巻と鎌倉を往来する領国経営だったと推測される。
南北朝時代には本拠地を従来の石巻から登米郡寺池に移したと推測される。但し本拠地の移転は鎌倉時代には、既に行っていたとする説もある。また本拠地を石巻から寺池に移転した過程や経緯は、現在をしても全く以って不明であり、推測の域をでないのが現実である。事実としてはっきりしている事は、この頃に勢威を拡大し、鎌倉時代から引き続き奥州の有力守護としての地位を確保した。
室町時代から戦国時代初期にかけて石巻に本拠を構える「石巻系葛西氏」登米郡に本拠を構える「寺池系葛西氏」に分裂し内紛状態にあったが、寺池系葛西氏であり、葛西家宗主であったとされる葛西満信が宇都宮氏広征伐で領地の拡張に成功し、伊達氏と同盟を結んで統一を回復すると、隣国の大崎氏と徹底して対立する。
しかし、この抗争は決着がつかず、また伊達氏との同盟で伊達氏庶子を養子として迎え入れたが、これが伊達氏の介入と家臣団の混乱を招く結果となり、かえって葛西氏の勢力を衰退させることとなった。
また、有力家臣である浜田氏の独立、熊谷氏との相克と領国における豪族の統制もうまくいかないようになり、第17代当主にあたる葛西晴信のときに豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために、改易された。
そして慶長2年(1597年)、晴信が死去することで大名としての葛西氏は滅亡した。葛西氏の終焉については異説もあり、晴信は秀吉の奥州征伐軍と果敢に戦い、戦死したも伝わる。
[編集] 子孫
その後の葛西氏は、庶子の多くが伊達氏、南部氏を中心に奥州の大名に臣従し現在に至る。臣従した庶子の多くが、それぞれ独自の葛西氏系譜を作成するが、これの多くが独自の口伝、相伝に拠って作成されており今日の葛西氏研究を混乱させている一因となっている。
[編集] 葛西氏歴代当主
(系図には諸説ある)
- 葛西清重【一】
- 葛西朝清【二】
- 葛西清親【三】
- 葛西清時【四】
- 葛西清信【五】
- 葛西貞清【六】
- 葛西高清【七】
- 葛西詮清【八】
- 葛西満信【九】
- 葛西持信【十】
- 葛西朝信【十一】
- 葛西尚信【十二】
- 葛西政信【十三】
- 葛西晴重【十四】
- 葛西晴胤【十五】
- 葛西親信【十六】
- 葛西晴信【十七】
[編集] 葛西氏関連人物
- 柏山明吉
- 柏山明助
- 柏山明長(小山明長)
- 柏山明久(折居明久)
その他
- 及川頼家
- 岩淵経文
- 浜田広綱
- 武鑓重信
- 矢作重常
- 米谷常秀