朝田善之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ 1902年5月25日戸籍上は7月4日 - 1983年4月29日)は京都府出身の部落解放運動家。
京都府愛宕郡田中村(現在の京都市左京区)の被差別部落に生まれ育ち、田中尋常小学校卒業後、靴職人となる。
1918年、米騒動で社会運動に目覚める。1922年、全国水平社の創立大会に参加。
1928年、三・一五事件の後、全国水平社本部の再建にあたって、1940年まで本部幹部を務める。
1931年、全国水平社解消意見を提出し、物議をかもす。
戦時中は松本治一郎らの全国水平社主流派に抗し、1940年8月、北原泰作たちと共に時局便乗の部落厚生皇民運動を組織して全国水平社の解消を企てたため、全国水平社から除名処分を受ける。
戦後は部落解放全国委員会結成に参加し、同委員会京都府連合会を組織、委員長に就任。1951年、朝鮮人部落の生活を差別的に描いた小説「特殊部落」を部落差別にすりかえる形でオールロマンス闘争を指導。
1967年、部落解放同盟中央本部の第2代中央執行委員に就任。1969年、矢田教育事件で差別者とされた中学校教師たちを暴力糾弾。1971年には部落解放同盟全国大会で部落差別に関する3つのテーゼを定式化。これは朝田理論と呼ばれ、部落解放理論として永らく主導的な役割を果たした。
しかし1975年、部落解放同盟内部の派閥抗争により中央執行委員を解任され、さらに部落解放同盟京都府連合会の内紛によって部落解放同盟から排除される。以後は、改良住宅家賃値上げ反対同盟を独自に結成したが、部落解放運動の主流に復帰することはできなかった。
多数の部落解放運動家を育成し、朝田学校と呼ばれる流派を率いた反面、人間的には偏狭で好悪の情が強く、部落解放同盟内部にも敵が多く、指導者の器ではないとも評された。
著書に『差別と闘いつづけて』(1969年)がある。