徐庶
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徐庶(じょしょ、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。字は元直(げんちょく)。男性。元の名を福といい、単家(ぜんけ、権勢のない家柄、或いは寒門)の出身と『魏略』にある。三国志演義では単を姓と勘違いしたのか、『単福』を名乗ったとされる。豫州穎川郡の出身。
撃剣の使い手で、義侠心に厚く友人の敵討ちを引き受けるが役人に捕らわれる。後日友人が助け出し、心に強く感ずるところがあったので、刀や鉾を捨て、学問に励むようになった。こうして出身地を同じくする石韜と親しく交際するようになった。後漢の中平年間(184年 - 189年)、戦乱が激しくなると、石韜と連れだって荊州に移住し、司馬徽の門下生となった。さらに、諸葛亮と特に親しくなった。
そのころ劉備は荊州・新野(河南省南陽市新野県)に駐屯していた。徐庶は劉備と会見し、劉備は彼を有能な人物だと思った。徐庶は諸葛亮を推薦し、劉備が徐庶に呼びに行かせようとすると、徐庶は「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れて行くことはできません」と言った。こうして、劉備は三顧の礼で諸葛亮を迎え入れることになった。つまり、この時期には徐庶と諸葛亮が揃って劉備に仕えていた事になる。
劉備が曹操に敗北し、徐庶の母が曹操軍の捕虜になると、動揺した徐庶は劉備に別れを告げ、曹操の元に赴いた。
曹操の配下として魏に仕えた彼は、なぜか彼に献策するようなことはしなかったという。一説では、劉備に重用されたことを義理立てしてのこととも言われている。
その後も魏に仕え、右中郎将・御史中丞にまで昇った。また、石韜は典農校尉にまでなった。のち、北伐を行った諸葛亮は二人の官職を聞き、二人の才能には不十分と思ったので、「魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか」と嘆いたという。なお、彼の没年は不詳だが明帝期に亡くなったと正史に記されているという。
[編集] 三国志演義など
劉備玄徳と出会って軍師として迎えられ、新野城の攻防戦では曹軍五千を二千の兵で迎撃し、見事に打ち破る。その後敵討ちと称して曹仁が二万五千の兵で南下するが、曹仁の八門金鎖の陣を見破り、完膚なきまでにたたき伏せた。
程昱の策による、徐庶の母親の筆跡を真似た偽手紙を受け取り、やむなく曹操に下ることとなるが、去り際に劉備に諸葛亮を推薦する。また、曹操のために献策はしないという誓いを立て、劉備の下を去った。母親はこれを見て徐庶をなじり、自殺してしまった(史実では曹操の捕虜になっただけなので、当然自殺はしていない)。
赤壁の戦いにも従軍したが、龐統が仕掛けた連環の計の真意に気づきながらもこれを見逃し、龐統の助言により涼州の馬騰に対する備えという名目で陣を離れ、被害を免れた。
スクウェア(現在のスクウェア・エニックス)の『ロマンシング サ・ガ2』には、彼をモデルとしたタンプクという人物が登場する。これは単(ぜん)を名字と勘違いした演義を引き継いだ上で、さらに読みまで変えたものである。