岩村藩
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岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県)岩村周辺を支配した藩。
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[編集] 戦国時代
岩村が有名になったのは戦国時代である。当時、美濃を支配下に置いていた織田信長は、宿敵である武田信玄の領国・信濃との要衝にある岩村城の重要性を考えて、城主・遠山景任に美貌で知られた自身の叔母・ゆうの方を妻として娶らせ、一門衆として遇していた。やがて足利義昭との対立から各国に信長包囲網が敷かれると、岩村も1572年の武田信玄の上洛作戦に伴ってその家臣・秋山信友に攻められることとなる。城主・景任は懸命に防戦したが、不幸にもその最中に病に倒れ、死去してしまった。信長も当時は浅井長政と対峙していたため、援軍を送ることができなかった。
城将がおらず、援軍の望みも無い岩村城はかくて武田軍の手に落ちた。しかしこのとき、秋山信友はこともあろうに景任未亡人のゆうの方を溺愛し、結婚してしまったのである。これを知った信長は激しく怒り、信玄の死や長篠の戦いで武田氏が衰えると、即座に岩村城に対して大軍を差し向けた。信友は懸命に防戦したが持ちこたえられるわけが無く、捕らえられて岐阜に送られ、逆さ磔の極刑に処されてしまったのである。このとき、信長は叔母のゆうの方、そして城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺という形で現われたのであった。
豊臣氏時代は、田丸忠昌が4万石で入っていた。忠昌は関ヶ原の戦いのとき、徳川家康に従って下野国小山まで参陣したが、家康が石田三成の挙兵を知って軍を西に返すと、「豊臣秀頼さまに背くことはできない」と言って家康の下から去り、西軍に与した武将である。しかしこのため、戦後に改易されてしまった。
[編集] 藩史
関ヶ原後は、家康譜代の家臣・松平家乗が2万石で入った。1614年に家乗は死去し、後を子の松平乗寿が継いだ。乗寿は大坂の陣で戦功を挙げたことを賞されて、遠州浜松藩へ加増移封される。
代わって三河国伊保より丹羽氏信が2万石で入る。ちなみに、この丹羽氏は織田信長に仕えてその四天王(織田四天王)にまでなったことで有名な丹羽長秀の一族と同族と思われがちだが、実は血縁関係が全く無い別の一族である。氏信から5代目の丹羽氏音のとき、藩政改革をめぐって家臣団内部で対立が発生し、幕府からそれを咎められて、越後国高柳へ減移封となった。
代わって信濃国小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が2万石で入り、以後、大給松平氏の支配で明治時代を迎えた。
[編集] 歴代藩主
[編集] 松平(大給)家
2万石(譜代)
[編集] 丹羽家
2万石(譜代)
- 丹羽氏信(うじのぶ) 従五位下。式部少輔。丹羽氏次の次男。
- 丹羽氏定(うじさだ) 従五位下。式部少輔。丹羽氏信の長男。
- 丹羽氏純(うじずみ) 従五位下。式部少輔。丹羽氏定の長男。
- 丹羽氏明(うじあきら) 従五位下。長門守。丹羽氏純の長男。
- 丹羽氏音(うじおと) 従五位下。和泉守。第2代藩主・丹羽氏定の弟・丹羽信氏の次男。
[編集] 松平(大給)家
2万石→3万石(譜代)
- 松平乗紀(のりただ) 従五位下。能登守。松平乗政の長男。乗寿の孫。
- 松平乗賢(のりかた) 従四位下。能登守。侍従。松平乗紀の長男。
- 松平乗薀(のりもり) 従四位下。能登守。下総国佐倉藩主・松平乗邑の三男。
- 松平乗保(のりやす) 従五位下。能登守。丹波国福知山藩主・朽木玄綱の九男。松平乗紀の孫。
- 松平乗美(のりよし) 従五位下。能登守。松平乗保の次男。
- 松平乗喬(のりたか) 従五位下。能登守。松平乗美の次男。
- 松平乗命(のりとし) 従五位下。能登守。松平乗喬の次男。