山田顕義
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山田 顕義(やまだ あきよし、弘化元年10月9日(1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、幕末の志士・明治時代の政治家・陸軍軍人。日本大学の学祖。通称は市之允、諱は顕孝、のち顕義と改めた。陸軍中将正二位勲一等伯爵。
[編集] 経歴
- 弘化元年10月9日、当時の長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)で、萩藩士・山田七兵衛顕行(大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる。
- 安政3年3月、藩校明倫館に学んだ。
- 安政4年6月、伯父山田亦介の推薦により松下村塾に入門。
- 安政5年、顕義の加冠に際し、師・吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる。尊皇攘夷運動に参加した。
- 文久2年秋、上京し、藩命により世子毛利定広の警護となる。
- 文久2年12月、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書に名を連ねる。
- 文久3年3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の加茂行幸にあたり、御前警護のため世子毛利定広に随行。同年4月11日、岩清水八幡宮への行幸にも同様に随行。
- 文久3年、八月十八日の政変で、三条実美以下7人の尊攘派公卿とともに長州亡命に同行するが、途中で京都へ上り潜伏。同年12月22日、長州に帰国。藩から遊撃隊御用掛を命ぜられる。普門寺塾(別名三兵塾)で大村益次郎から西洋兵学を学ぶ。
- 元治元年、蛤御門の変(禁門の変)に参陣。山崎に布陣する久坂玄瑞、真木和泉らの陣に加わる。同年8月、大田市之進、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となり、四カ国連合艦隊の下関攻撃(馬関戦争)で奮戦するが長州藩敗北。同年12月、対幕恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起に参戦し勝利を収め、「俗論派」を排除する。
- 慶応2年、第二次長州征伐に際し、藩海軍総督の高杉晋作から小型砲艦・丙寅丸(100トン弱、速力5ノット)の砲隊長に任命され、同年6月、周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。同年7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収める。なお、同年7月20日将軍家茂の死去により第二次長州征伐は休戦。
- 慶応3年5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。同年11月、薩摩藩からの倒幕のための出兵要請を受けた藩主毛利敬親の命で、全軍総督毛利内匠の東征軍先鋒隊700余とともに海路東上、京都に入る。
- 慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府・仁和寺宮嘉彰征討総督の副参謀に任命される。陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、東北諸藩との戦いや箱館戦争で勝利した。同年6月、宮中において黒田清隆参謀らとともに天皇に謁見、戦功を賞される。
- 明治2年、陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。8月、山口凱旋。顕義と改名。同年9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜される。
- 明治3年、大蔵大丞井上馨の養子、鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚。
- 明治4年7月、陸軍少将に任ぜられ、兵部大丞を解かれ兵部省付きとなる。同年10月、右大臣岩倉具視欧米使節団に兵部省理事官として随行。サンフランシスコ、ソールトレーク、シカゴを経由し、ワシントンに到着。兵部省一行とともに岩倉らと別れ渡仏。パリ、オランダ、ベルギー、ブルガリア、ロシアで軍制を調査。ベルリン、ウィーンに立ち寄る。
- 明治6年6月、帰国後、「兵は凶器なり」と指摘した理事官功程(建白書)を提出した。東京鎮台司令長官に任命されるが、同職を解かれ清国特命全権公使に任命される。しかし、清国駐在に至る前の明治7年2月、佐賀の乱勃発し、同職を解かれ、乱鎮圧のため九州出張。乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱鎮圧の戦功を賞され、司法大輔に就任。
- 明治8年9月、刑法編纂委員長に就任。
- 明治10年3月、西南戦争において、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。
- 明治11年2月、刑法草案審査委員として法典編纂に従事。同年11月、陸軍中将に任ぜられる。
- 明治12年9月、参議兼工部卿に任ぜられる。
- 明治13年2月、専任参議に任ぜられる。同年6月、憲法意見書を提出。
- 明治14年8、9月頃、独自の憲法草案である「憲法私案」を左大臣有栖川宮に呈し、さらに改定したものを右大臣岩倉具視に呈す。同年10月、参議兼内務卿に就任。
- 明治16年4月、東京府知事芳川顕正に対し、衛生上の理由から、東京府においても下水道改良整備を示達。司法卿。同年12月、内務卿を辞任し、司法卿兼参議に就任。
- 明治17年、伯爵を受爵。
- 明治18年12月、内閣制度発足、第一次伊藤博文内閣の司法大臣(初代)に就任。
- 明治20年、大日本私立衛生会会頭に就任。同年10月、法律取調委員長に就任し、民法・商法・訴訟法の編纂事業に貢献。
- 明治21年4月、黒田清隆内閣の司法大臣に就任。12月、民法典、商法典の各法案を黒田清隆総理大臣及び内閣に提出(明治23年4月、民法中の財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編、民事訴訟が公布。同年10月、民法人事編・財産取得編中贈与・遺贈・夫婦・財産契約が公布。しかし、「民法出デテ、忠孝亡ブ」との法典論争が巻き起こり、施行が延期される)。
- 明治22年1月、皇典講究所所長に就任。同年10月4日、同所内に日本法律学校(日本大学の前身)を創設。同年12月、第一次山県有朋内閣の司法大臣就任。
- 明治23年、皇典講究所内に國學院(現・國學院大學)創設。同年12月、商法施行延期の責任をとって司法大臣を辞任。
- 明治24年2月、司法大臣に復職。同年5月、第一次松方正義内閣の司法大臣に就任。6月、大津事件の責任をとって司法大臣を辞任。
- 明治25年1月、枢密顧問官に就任。同年11月、但馬・生野銀山(兵庫県朝来郡生野町)を視察中、事故死(日本大学の研究によれば、頭蓋骨の形状などから、突き落とされたのではないかとの見解が強い)。享年49。正二位。勲一等旭日桐花大綬章。
- 墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。
- 昭和54年、日本大学が建学90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられた。園内には「山田顕義先生之像」などが設けられている。
- 曾孫にあたる顕喜は日本大学芸術学部映画学科で教授を務めている。