小川光氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小川光氏(おがわ みつうじ、? - 慶長15年(1610年)8月)は、戦国時代・安土桃山時代の大名。壱岐守。現在の大分県日田市丸山町月隈公園に1601年に丸山城を築城した。
[編集] 概略
一説によると小川祐忠の長男(嫡子であるとも)という。だとすると、祐忠の正室一柳氏を母とする子であろうか。あるいは信長から官位を与えられた長男右馬允の後身とも思われる。小川祐滋の改名とも考えられなくはない。いずれにせよ小川氏一族でこの時期に2万石もの所領を一気に与えられるほどの者は祐忠一族の者(が復活する場合)を除いてほとんど考えられず、まず祐忠一族の一人と考えてよかろう。徳川家家臣が出世して大名になった可能性もなくはないが、大幅な加増を行う傾向の少ない徳川家にあって、無名の家臣がいきなり二万石に引き立てられたとするのは無理がある。また徳川家臣が大名出世をしたのであればまず名前が他の記録に残っているはずであり、記録が少ないということは徳川家臣の線は薄いものと思われる。
関ヶ原の戦いでの内応を嫌われた祐忠の改易後、祐忠の正室の実家であり小川軍の置かれた状況を知る一柳氏の嘆願によって2万石を与えられ大名に復活したが、慶長15年(1610年)8月に没し無嗣断絶となった。
祐忠の子、裏切り者の家系ゆえに悪評高く記録が残り難かったのか、署名で「いきのかみ・いき」とだけ書かれた文書が残るのみで、未だに正確な系譜、日田藩主としての功績ともに不明。
とはいえ十年近く統治しておりまた地元でも長く記憶されており、小大名の幕法違反はあっさり改易される幕府初期にそれなりに長い期間を生き延びていることから、無能な統治者ではなかったと思われる。
地元では日田代官として認識されているケースもあり、研究者にも大名ではないという見解もある。
カテゴリ: 人名関連のサブスタブ | 戦国武将 | 1610年没