小出秀家
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小出 秀家(こいで ひでいえ、永禄10年(1567年)-慶長8年3月23日(1603年5月4日))は、安土桃山時代の武将、後に江戸幕府旗本。父は小出秀政、母は大政所の実の妹(従って豊臣秀吉の従兄弟に当たる)。兄に小出吉政、弟に小出三尹がいる。
幼少の頃より秀吉に仕えて、その天下平定後には従五位下遠江守に叙せられて和泉国大鳥郡に1,000石が与えられる。
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐に向かった際に父の名代として兵300を率いてこれに加わる。途中で石田三成が大坂で挙兵して父や兄が三成率いる西軍に加勢したことを知るも、家康にそのまま従って東軍として関ヶ原の戦いに参加する。更に領国に帰還後には西軍方について敗走途中の長宗我部盛親の軍を同国石津浦にて撃退した。家康は秀家の功を高く評価して、河内国錦部郡1,000石が加増されるとともに、西軍についた父や兄の所領安堵を許した。
だが、その3年後に秀家は37歳の若さで急死してしまう。家康はその早すぎる死を惜しんで改易にはせずに弟・三尹への家督相続を許した。その翌年、父・秀政が死去すると家康は吉政に命じて1万石を割かせて秀家の後継者である三尹に与えさせて陶器藩を立藩させた。
なお、原則として旗本以下の死亡記事は載せない『徳川実紀』においても秀家を関ヶ原の功臣として特にその死去の記事を立てている。