小中華思想
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小中華思想(しょうちゅうかしそう)とは、中華思想から派生して、日本、朝鮮、阮朝ベトナムなど、中国の王朝以外の儒教文化圏のうちで比較的発達していた国で起こった「文明の担い手である」という自負の思想である。
元来これらの国々では儒教の影響を受けて、自らを文明の担い手と考える風潮が少なからず存在したが、モンゴル民族の元朝に続いて漢民族ながら農民出身者が建国した明朝が成立すると、漢民族(中国)が「中華文明の継承者」であるという儒教伝統の主張に疑問が持たれ始め、更に朱子学の大義名分論や正統論が紹介された事でその考えに拍車をかけた。
17世紀中期に女真(満州)族の清朝が明朝に代わって中原支配を確立させると、周辺諸国では公然と自民族こそが「中華文明の継承者」であると唱える学説が盛んになり始めた。
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[編集] 各国における小中華思想
[編集] 朝鮮王朝(李氏朝鮮)
17世紀、満州族の清王朝が漢民族の明王朝に取って代わり中原支配を確立させると、朝鮮の儒者たちは「蛮族」である満州族に中華文明を継承する力はないとみなし、中原の中華文明は明朝と共に滅びたために「中華文明の最優等生である朝鮮こそが正統な中華文明の継承者でなければならない」として「朝鮮が中華としての役割を果たしてゆく」と考えたのが始まりだといわれる。
[編集] 阮朝ベトナム
ベトナムは、中国の直接支配から脱却し、独自の王朝を開いたという誇りが高く、対外的君主と国内的君主を分離した上皇制度を導入していた事で知られている。これは皇帝がその諱(本名)を東南アジア諸国に知られて中国皇帝の臣下として扱われるのを避ける為、皇帝が早い段階で後継者に皇位を譲って上皇となり、宮廷内の最高意思決定と中国皇帝に対する朝貢を行い、内政一般など国内の政治は皇帝が担当するという慣習が成立した。このため、中国への朝貢は上皇が「国王」を名乗って行っており、中国正史とベトナムの正史が伝える国王の在位には一代ずつのずれが生じているといわれている。
満州族の清王朝が中国を征服すると、中原の中華文明は北の清朝中国と南の阮朝ベトナムに対等に継承され、南の阮朝ベトナムは東南アジアに中華文明の威光を広める役割を持つとした。
カンボジア、ラオス、ミャンマーなどの東南アジア諸国はベトナムによる教化対象の国と意識し、現代のベトナム人にもその意識が少なからず有るといわれている。
[編集] 日本
江戸時代の日本では「中華とは本当は日本のことである」と唱えていたものは少ないが存在した。 「水戸黄門」こと徳川光圀は満州族の清王朝に征服された中国を目にして、有史以来革命を経験せず、異民族の支配に置かれた事のない日本こそが古来の中華文明を継承しており、また、中華を名乗る資格のある唯一の国家であると唱え、それは水戸学に引き継がれた。山鹿素行も歴史書『中朝事実』において、日本を「中華」と呼んでいる(ちなみに「中朝」とは中華の王朝即ち天皇家とその国家を指す)。水戸学が育んだ尊王思想が明治以後の国体思想や皇国史観を生み出す事になる。