富田芳郎
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富田芳郎(とみたよしろう、1895年-1973年)は日本の地理学者。
明治28年(1895年)、北海道札幌市に生まれ、大正4年(1915年)に東京高等師範学校理科3部に入学し地理学と博物学を専攻した。東京高等師範では地形学を山崎直方・辻村太郎に、地質学を大関久五郎に、人文地理学を内田寛一に学んだ。大正7年(1918年)に東京高師を卒業し、東京女子高等師範学校付属小学校に3年間勤めた後、大正10年(1921年)に東北帝国大学理学部地質学科に入学した。
卒業研究は「新潟油田の地質構造と油砂の研究」であった。大正13年(1924年)に東北帝国大学を卒業するが、大正12年に設立された東北帝国大学法文学部の助手として勤務し、地球物理学専攻の田中舘秀三のもとで助手を務めた。博識であった田中舘秀三は、地質学・海洋学・湖沼学から地理学まで広汎な学問分野をカバーしていた。当時の東北帝国大学の佐藤丑次郎法文学部長から「経済地理学の研究に従事するべし」という辞令の伝達を得た。大正7年(1918年)に佐藤伝蔵の指導で山東半島で巡検を行っている。大正15年(1925年)には東北帝国大学から同級の遠藤誠道の後任として奈良女子高等師範学校に転出した。昭和4年(1929年)には日本地理学会が奈良女子高等師範学校で開催されているが、この時、富田は山崎直方と地形について歓談している。当時の奈良女子高等師範学校の校長は、有名な古生物学者の槇山次郎の父親である国語学者の槇山英次であった。
昭和6年(1931年)には奈良女子高等師範学校から台北帝国大学に転任した。敗戦後まで継続していた研究の成果をまとめて台北帝国大学に「台湾の地形発達史」と題して学位論文を提出した。この論文の主査は早坂一郎であった。台北帝国大学に勤めていた頃は、国土地理院の地形図の使用については軍事機密で厳しい規制があった。1936年から1938年にかけて早坂一郎の提唱で日本学術振興会から研究費を得て「台湾の地質構造の研究」というテーマで総合研究が行われ、「地形による地体構造の調査」を分担した。これが学位論文の基礎になったものである。
昭和22年(1947年)12月に台湾をあとにし、翌年に母校である東北大学理学部地理学教室へ奉職した。その後、日本大学文理学部地理学教室の教授や国士舘大学文学部地理学教室の教授などを歴任した。また、日本地理学会の会長をつとめ同学会の名誉会員となった。
1972年刊「台湾地形発達史の研究」(古今書院、370p)の序文(1-10)に自らの略歴と生い立ち・エピソードなどを記している。