宮澤ミシェル
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宮澤 ミシェル(ミッシェル)(みやざわ ミシェル、1963年7月14日 - )は千葉県出身の元サッカー選手。父はフランス人の世界的なクロマティック・アコーディオン奏者のデデ・モンマルトル(本名アドレアン・レジャン)、母は日本人。
[編集] 略歴
千葉県立市原緑高校時代の1981年(当時フランス国籍)にびわ湖国体で、国体史上初の外国籍選手として出場。その後国士舘大学を経て、1986年に日本サッカーリーグのフジタ工業サッカー部(現・湘南ベルマーレ)に入社。1988年度には天皇杯準優勝を経験した。なお当時の本名はミシェル・ジュンジ・レジャン(Regent Junji MICHEL)で、登録名はミッシェル。
その後、1992年にプロ化の為にクラブチームに移行し、宮澤の地元・千葉県を本拠とした東日本JR古河FC(現・ジェフ千葉)移籍。1993年には日本国籍を取得し(なお日本国籍取得後は宮澤ミッシェルと名乗っていたが、後にフランス語の読みに近い「ミシェル」に改めた。「宮澤」は母の苗字である)、ファルカン監督時代(1994年)に代表選出されるが怪我のため辞退、試合出場は無い。1996年第1ステージを最後に現役を引退。その後はサッカー解説者として視聴者に楽しくわかりやすい解説で視聴者からの絶大な支持を集めているが、よく選手の好き嫌いの激しさが個人的に聞こえてしまうことがあり、「ある意味ではテレビ向けではない」「NHKを代表する迷解説者の一人」との評価もある。
父のデデ・モンマルトルは、終戦直後に『枯れ葉』などのシャンソンを日本に紹介した人物。演奏旅行で来日しミシェルの母と結婚、そのまま永住したが、宮澤によれば、彼は誇り高きフランス人で、日本に馴染もうという気はさらさら無く(ただし、息子の宮澤は日本語しか解さない)、「おはよう」と「こんにちは」くらいしか覚えず、みそ汁一杯さえ飲まなかった、という。
2006年1月20日、石川FC「ツエーゲン金沢」のスーパーバイザーに就任する。
[編集] Jリーグの準外国人選手枠
日本サッカー協会基本規程第69条に定められている「外国籍扱いしない選手」の枠、いわゆる『在日枠』が存在する。これについて、宮澤ミシェルを救済するために設けられたという説があるが、否定する説もある。Jリーグの前哨戦となる「'92 Jリーグヤマザキナビスコカップ」があり、宮澤ミシェルの日本国籍取得は1993年。Jリーグ開幕のが同1993年ではあるが、制度の規約作りには時間がかかるため、宮澤ミシェルを救済することを一つの目的として設計されたが適用されたことは無かったという可能性は残る。
なお、『この時、同じジェフで準外国人選手枠を適用されて出場していたチームメイトは申在範である』という説があり、外国人選手3人プラスで申選手が出場している記録が確認できている。
[編集] 出演番組
- NHK衛星放送サッカー解説
- NHK総合テレビジョン「サタデースポーツ」Jリーグコメンテーター(2004年8月~)
- BSジャパン 「サッカーTVワイド」サッカー解説
- 2004年アテネオリンピック・ジャパンコンソーシアムサッカー解説
- 千葉テレビ放送「月刊ジェフくら」司会
- テレビユー福島「学校が好き!」司会
- 朝日放送ラジオ「突撃!!オフサイドトーク」パーソナリティー
- 地方ラジオ5局「宮澤ミッシェル・サッカー倶楽部」パーソナリティー
- 静岡放送ラジオ「宮澤ミシェルのスポーツナビ」パーソナリティ(毎週土曜日15:00-17:00)