実仁親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- (さねひとしんのう)平安時代の皇族。後三条天皇の次男で白河天皇の皇太弟。本項にて解説。
- (さねひとしんのう)室町時代の皇族。後亀山天皇の子で大覚寺統の皇位継承権者。後南朝及び小倉宮家の祖。小倉宮実仁親王の項目を参照のこと。
- (みひとしんのう)室町時代に在位した第101代天皇・称光天皇の諱。初名は躬仁(読み方は同じ)。称光天皇の項目を参照のこと。
実仁親王(さねひとしんのう、延久3年2月10日(1071年3月14日)-応徳2年11月8日(1085年11月27日))は、平安時代の皇族。後三条天皇の第二皇子。母は源基平の娘である女御源基子。異母兄・白河天皇の皇太弟となる。同母弟に輔仁親王がいる。
父・後三条天皇は、傍流とはいえ藤原北家の血を引く長男の貞仁親王(白河天皇)よりも同家と外戚関係を有しない源基子との子供に皇位継承候補者として期待をかけた。そこで延久4年(1072年)に白河天皇即位の際に実仁親王はわずか2歳で皇太弟として立てられ、更に翌年の輔仁親王誕生直後に上皇となっていた後三条が重態に陥ると、重ねて実仁親王が即位した後には、輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。承保2年(1075年)に着袴、承暦2年(1078年)に読書始の儀式が行われている。世間からも「いと清らかなる男」称されて、将来を期待されていた。
しかし、応徳2年に実仁親王は疱瘡により倒れてわずか15歳の若さで急死してしまう。白河天皇は翌年には父の遺言を無視して実子である善仁親王を皇太子に立ててその日のうちに皇太子への譲位を宣言して堀河天皇を即位させて院政を開始する事になった。
[編集] 系図
─(71)後三条天皇┬(72)白河天皇┬(73)堀河天皇┬(74)鳥羽天皇┬(75)崇徳天皇─重仁親王 │ ├覚行法親王 └最雲法親王 ├(77)後白河天皇────→ ├実仁親王 ├覚法法親王 └(76)近衛天皇 │ └媞子内親王(郁芳門院) └輔仁親王─(源)有仁
カテゴリ: 平安・鎌倉時代の皇族 | 1071年生 | 1085年没 | 日本の歴史関連のスタブ項目 | 人名関連のスタブ項目