安部信盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安部 信盛(あべ のぶもり、1584年(天正12年) - 1674年1月3日(延宝元年11月27日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で武蔵国岡部藩藩主。安部信勝の長男。
遠州浜松出身。安部氏はもともと今川氏の家臣であったが、今川氏が武田氏の侵攻で没落したため、祖父の安部元真の代に徳川家康に仕えるようになっていた。1600年、父・信勝が死去したため、信盛が家督と5200石の所領を継承する。同年の関ヶ原の戦いでは本多正信隊に属して下野国小山にまで参陣した。1605年には徳川秀忠の将軍宣下のための上洛に従っている。
1614年からの大坂の役には冬、夏とも参陣し、その功績により1616年には御徒頭に任じられた。1619年、秀忠の上洛に従い、このとき摂津守に任じられた。1620年、秀忠の娘・和子の入内に参列する。1636年、4000石を加増され、合計9200石となった。1649年、大坂城番となり、このときに摂津において1万石を与えられた。これにより1万9200石の大名となったのである。
1673年11月27日、死去。法名は竜徳院妙法性都。墓地は埼玉県深谷市の千手寺。領地は1万石以上であったが、武蔵・摂津・三河・下野国に分散していた。