太田牛一
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太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず、1527年(大永7年) - 1613年(慶長18年)3月)は戦国時代の人物。和泉守。牛一が実名か号かどうかは諸説あるが、信定(のぶさだ)、とする説もある。通称は又助(またすけ)。また、実名を資房、信長の右筆であったとする説はよく見られるが実際は誤り。牛一の読みは、ぎゅういちと呼ばれているが、晩年に、本人が「ぎゅういち」から「うしかず」に名を改めたという説がある。
織田家家臣柴田勝家の下に仕えるが、弓の腕を認められ、1568年より織田信長の直臣となる。側近として、政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治める。本能寺の変の際には近江国の代官を務めており、変後に丹羽長秀に2000石をもって仕えたが、後に豊臣秀吉に召し出され、文禄2年には弓大将として肥前名護屋に在陣。翌3年、明使の接待をつとめ、慶長3年の醍醐の花見では秀吉の愛妾三の丸殿の警護を務めた。慶長18年(1613年)3月、病死。子孫は孫の宗古が前田利常に仕え、以来加賀藩士として続いた。
文才に優れ、『信長公記』『安土日記』『大かうさまくんきのうち』などをしたためた。
信長公記は、事実のみを客観的に記した史料として貴重である。他に織田信長を題材とした史料は小瀬甫庵が手がけた信長記などもあるが、フィクション性が強く、資料としての信憑性には欠ける。
[編集] 関連項目
- 小説・テレビドラマ
「信長の棺」 著:加藤廣(2006年11月 テレビ朝日でドラマ化 太田牛一:九代目松本幸四郎)
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