外省人
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外省人(がいしょうじん)とは、自らの所属する省の人以外の人のことを指す中国語における用法である。あるいは、ある省(自分の出身の省でなくてもかまわない)にいる時、その省出身でない人を指す呼称である。どちらの意味で用いる時でも、普通は外国人は含まない。
ただし台湾では、特別な意味で用いられることが多い。以下、台湾の外省人について詳しく述べる。
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[編集] 中華民国台湾省における外省人
台湾において外省人とは、1945年の日本敗戦で日本による統治終了後、おもに中国大陸(福建省の金門県、馬祖島を含む)から台湾に移住してきた人(大部分は漢民族)とその子孫を指す。本省人と区別する意味で用いられる。 ただし、近年では、外省人の家系ながら生まれも育ちも台湾という世代や、本省人との通婚するケースも増えている。そのため、外省人の本土化も徐々だが進んでいる。また、台湾独立派の中には、この言葉を台湾が中国の一省であることを前提とした表現であることを忌避し、中国系台湾人(外省人を独立台湾の国民と認める立場から)や中国人、外国人(外省人を独立台湾の国民と認めない立場から)などと呼ぶべきだと主張する人もいる。
[編集] 外省人と台湾社会
外省人の多くは、中国国民党政府・軍の台湾接収および移転に伴い台湾に来た。そのため、官僚や軍人の割合が比較的多く、日本人と入れ替わる形で台湾社会に入った。また、日本人が住んでいた家屋などを接収して用いたため、居住地区も重なっていた。特に蒋介石時代、政府要人や公職を外省人でほぼ独占した。二・二八事件を初めとする中国国民党の本省人弾圧により、本省人との対立は今も根強い。そのため、国民党政府は本省人の登用について、より慎重にならざるを得なかった。
外省人についてエリートや特権層が中心であるとの誤解がある。しかし、敗残兵やその家族が台湾に逃げたという背景から低所得層の外省人も少なくない。また、外省人は主に北京語(「國語」)を話すと思われているが、実際には中国各地の出身者が混ざっている。そのため、彼らは「國語」を用いるしかなかったのである。確かに生活や職業上、國語の使用頻度が高いため、本省人よりも國語が上達しやすいことも事実である。その一方で、國語に特化したことの代償も大きい。台湾の民間企業では大企業を除き、台湾語(ホーロー語)が用いられることが多い。つまり、多くの外省人にとって、職業の選択肢が軍人、公務員、教師(軍公教)のほか、メディアあるいは食堂やタクシー運転手などの個人営業などに限られてしまう。そのため、外省人は教育を重視する一方で、脱落すれば定職に就くことが難しいというリスクを抱えている。そのことが、現在でも外省人ヤクザである竹聯幇が存続している背景の一つだと言われている。
[編集] 外省人と政治
一般的に、外省人は中国人アイデンティティーが強い。そのため、中国国民党や親民党など、泛藍連盟を支持するものが多い。外省人が台湾の全人口に占める割合は10~15%ほどである。しかし、台湾本土化の流れの中で、少数派である自らの代表者を政治に送り込む必要性を強く認識している。そのため、泛藍連盟の固定票となっている。また、選挙行動では自身の投票が死票になることを避ける傾向が強い。そのため、泛藍連盟に属する政党や政治家も、外省人票を固めることを重視する傾向がある。ただし、かつての新党や今日の親民党のように、外省人の票に依存しすぎると本省人票が取れない。このように党勢が弱くなると、外省人は見解が近く、比較的大きな政党に支持を移す、という悪循環(新党化現象)が起こってしまう。
なお、歴史的に見ると外省人の中にも台湾の民主化に貢献した者もいる。228事件で台湾人エリートが虐殺された経緯もあり、蒋介石政権の元では外省人知識人が民主化運動を主導した。雷震や胡適らによる『自由中国』の発刊である。彼らの活動は蒋介石との亀裂を生み、それが彼らの国民党政権に対する反発を増す結果となった。1960年、雷震は中国民主党の結成を画策するが、そのために投獄され、彼らの活動も収束した。また雷震と共に逮捕された傅正は、1966年の釈放後も民主と台湾としての国家建設を主張し、1986年の民進党創設では10名のメンバーの一人となった。また、1990年の三月学運でも外省人学生が少なからず参加した。また、陳師猛・台湾大学教授は、このとき学生の前で国民党の党員証を引き破り、後に国民党の資産問題するようになった他、陳水扁政権で中央銀行副総裁や総統府秘書長を歴任した。
[編集] 著名な台湾外省人
日本でも比較的よく知られている台湾外省人の例としては、テレサ・テン(歌手)、馬英九(台北市長)、侯孝賢(映画監督)などを挙げることができる。