胡適
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡適(こ・せき、ピンイン:Hú Shì、1891年12月17日 - 1962年2月24日)は中国近代の学者・思想家。原名は嗣穈、字は希疆、後に適と改名した。字は適之。「適」は漢音で「せき」だが慣用音が「てき」のため、「こてき」と呼ぶ人もいる。安徽省績渓県の人。
清末、上海中国公学を卒業後、宣統2年(1910年)にアメリカのコーネル大学で農学を学び、次いでコロンビア大学のデューイのもとでプラグマティズムの哲学を学んだ。
1917年(民国6年)、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し,難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、理論面で文学革命を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。
1919年、『新青年』が無政府主義・共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適は李大釗と「問題と主義」論争を興し、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。
胡適はマルクス・レーニン主義を批判し、1922年、『努力週報』を創刊し改良主義を主張した。1925年前後に禅に関する論考を著し始める。1930年、大英博物館の敦煌文書調査で発見した荷沢神会の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表する。満州事変が起こると、1932年、『独立評論』を創刊し、日本の中国侵略を非難している。蒋介石政権に接近し、1938年駐米大使となってアメリカに渡った。1942年に帰国し、1946年には北京大学学長に就任した。1949年、共産党が国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命し、1958年から台湾に移り、外交部顧問となった。その後、中央研究院長に就任し、『水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。
[編集] 著書
- 『中国哲学史大綱』(1919年)
- 『白話文学史』(1928年)