土田御前
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土田御前(どたごぜん・つちだごぜん 生年不詳 - 文禄3年1月7日(1594年2月26日))は、織田信秀の正室。実名は不詳。信長、信勝(信行)、秀孝らの生母。土田下総守政久の息女。実家の土田氏が美濃可児郡の土田であれば「どた」、尾張清洲の土田であれば「つちだ」となる。
夫信秀の死後、次男勘十郎信勝と共に末森城に住んでいた。うつけと呼ばれた信長を嫌い、品行方正な信勝を可愛がったと言われる。信長と信勝が家督争いをして信勝が敗れると、信長に信勝の赦免を願い出、一度は赦させた。しかし後に信勝は信長に誅殺されることになる。
その後の彼女の履歴は不明だが、天正6年(1578年)、荒木村重が謀反した時、信長は村重の翻意を促すため、「御袋様」を人質に差し出す予定でいたという。また『安土日記』(『信長公記』の異本)には、同7年(1579年)2月、中川清秀に槍を下げ渡したとある。清秀の村重離反を賞してのこととみられ、荒木氏周辺と何らかの関わりがあったものかと推測される。
本能寺の変後は、孫の信雄の庇護のもとにあり、「大方殿様」と尊称され、六百四十貫文を化粧料として与えられていた。文禄元年(1590年)の信雄の改易後は、伊勢安濃津の織田信包のもとに引き取られ、同3年(1594年)正月7日、同地で死去した。このことから、信包も土田御前の子ではないかとも思われる。
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