喜連川騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。 |
記事の正確さ:この記事の正確さについては疑問が提出されているか、あるいは議論中です。詳しくは、この記事のノートを参照してください。 |
喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、旧喜連川町出版の『喜連川町誌』(1977年版)によると、喜連川藩で正保4年(1647年)に起こったとされる藩政の混乱である。
藩祖足利国朝から、国朝の弟の2代藩主喜連川頼氏、そして3代藩主喜連川尊信の時までの58年にわたり、足利家親族として筆頭家老格である喜連川一色家の当主、一色刑部らによって起こされたとされる。
一色氏は、初代将軍足利尊氏より3代前の足利頼氏の実弟一色公深を始祖とする親族であり、室町将軍家(四職)・関東公方家(御連判衆)、古河公方家(御連判衆)、小弓公方家など足利家代々の家臣として要職を担っていた。事件の評定に関与した吉良義冬とも足利家を始祖とする同族であり、僧正天海と並び「黒衣の宰相」と言われ、武家諸法度の制定に関与した金地院崇伝と義弟一色範勝とも同族である。
以下に経緯を記すにあたって、「城代家老」という表現をとっているが、本来は「筆頭家老」が正しい。喜連川藩は、足利家嫡流かつ外様であり、約5000石の小大名だが、徳川家親族扱いであり、10万石扱いの特殊な大名である。さらに、国勝手であり、無役(諸役御免)で参勤交代の任も免除されている。よって、交代寄合的な特権もあるが江戸屋敷は無く「江戸家老」はいないので、「国家老」とも言わない。また、藩主が国に常時在しており、川崎城(喜連川城)も、慶長19年(1614年)の火災や使いづらさのために取り壊し、山下に館を設けているので「城代家老」とは言わないのである。しかし、『喜連川町誌』の表現にならい、ここでは「城代家老」の表現をとる。
また、喜連川家の家老は将軍との謁見が許されている。外様では同家だけで、譜代大名家であっても数少ない特権である。
目次 |
[編集] 経緯
この事件は、翌年慶安元年(1648年)春、尊信派の浪人高野修理(直訴準備のため脱藩浪人となった)が5人の百姓と密かに藩を抜け出し、幕府に「城代家老一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と直訴したことに始まる。
時の大老酒井忠勝・老中の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の4人がその審理に当たり、評定には酒井忠吉・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎が当たったとされている。酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟であり、吉良義冬の義父である。吉良は、この一色刑部と同じく足利家の親族である。
また喜連川町誌では、3代尊信の正室(那須資景の娘)の子万姫(8歳)もこの直訴に加わったとされているが、先に発刊された『喜連川町史』(明治44年編)では、このことは記述されていない。
事件の現地調査に当たった御上使は7月11日に江戸を立ち、7月17日に調査を終えて江戸に帰った。御上使は、甲斐庄喜右衛門(幕府御弓頭四千石大身旗本)・野々山新兵衛(吉良家家臣)・加々見弥太夫(吉良家家臣)の3名であり、喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名が事件後の付け家老となった。誰の付け家老かは明記されていない。
そして即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が伊豆大島へ流罪、一色左京(一色刑部の長男)・石塔八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の5名は大名旗本預かりとなった。 また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市15歳(一色刑部と同じ小弓系の家臣、故堆津下総守主殿の長子)は事件との係わり合いを恐れて出奔していたが、役責不行き届きの罪により白河藩に預けられたとされる。この時の白河藩主は榊原忠次である。誰一人として死罪となった者はいなかったが、結果としてこれら一色派の家は断絶となった。
この時「3代喜連川尊信は事件の責をとり、隠居させられ、3代尊信の長男(生母は一色刑部の娘)4代喜連川昭氏(7歳)が家督を相続した」という説もある。 『喜連川町誌』では、4代昭氏の家督相続は榊原忠政を後見人として3代尊信の死去年である承応2年(1652年)とされている。しかし、榊原忠政は、すでに死去(1601年)しており、この年なら、忠政の子で白河藩主榊原忠次(松平忠次)が正しい。さらに、現在の足利家により整備供養されている、同町の松林山欣浄院専念寺にある喜連川足利家の側室子女の墓にある、4代昭氏の生母(一色刑部の娘であり3代尊信の側室)の墓石から見られる死去年は寛永19年(1642年)12月2日であり、それでは4代昭氏と実弟氏信の出生の歴史さえ物理的に消えてしまう。よって、この事件の真相はまだ明らかにされていない。
[編集] 補足
東京大学史料編纂所に保存されている「史料稿本」には次の綱文(慶安1年12月22日2条)が記されている。
是より先、喜連川藩主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す
上記綱文の典拠史料としては『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』『寛明日記(寛明事跡録)』『寛政重修諸家譜』『足利家譜』などがある。この綱文は、東京大学史科編纂所データベースサイト[1]の大日本史総合データベースにて確認することができる。
『喜連川町史』『喜連川町誌』には上記綱文の「高四郎左衛門」は登場しない。また、これら二誌にて直訴を起こした登場人物「高野修理」の脱藩前の姓名は記述されていない。しかし、1590年豊臣秀吉の命により、古河公方家の足利氏女(氏姫)と小弓公方家の足利国朝の婚姻により喜連川足利家が起きた時、足利国朝が上総小弓御所から喜連川の地へ向かった際、従った家臣の中に一色下野守刑部と高修理頭そして堆津下総守主殿(後の二階堂)が確認できる。
この高氏といえば、『太平記』にて足利家執事を勤めた高師直・高師泰兄弟が有名である。
よって、この綱文によると、幕府は3代喜連川尊信に隠居を命じ、直訴事件の原告である「高四郎左衛門等」を大嶋に流したことになる。旧喜連川町発刊による二誌で被告となる筆頭家老一色刑部等の名は確認できない。
また、幕府の公式文書である『徳川実紀』では、喜連川騒動についての記述は残されていないが、慶安元年7月3日条には
「喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し松平忠次の家医である関ト養に治療をさせた」
と記されている。松平忠次とは白河藩主榊原忠次のことで、喜連川尊信の母(父喜連川義親の正室)の兄弟にあたる。この記述は『喜連川町誌』の記述にある、事件調査のため幕府御上使が江戸を発った7月11日の8日前(7月3日)に書かれた幕府による記録である。
[編集] 疑問点
この一色家の墓は、現在も喜連川足利家菩提寺である龍光寺内足利家墓所正門前に、筆頭家老の家格を表わすように存在しており、一色刑部と左京親子の名がその墓石に明確に刻まれている。主君の墓の前に、旧喜連川町発刊の二誌において謀反人とされ、武家諸法度により喜連川の地に戻れるはずもない2人の墓石が実在するのである。墓石には2人の死去年はなく、龍光寺の過去帳にも記載がない。
『徳川実紀』慶安元年7月3日条により、幕府は喜連川尊信の病状がすでに把握されていたとするならば、8日後に喜連川に向かった幕府御上使の本来の目的は、なんであったのか?
旧喜連川町発刊の二誌では、尊信が「発狂」か「否か」がその目的であったと記述されているが矛盾が発生する。
しかも、大嶋に流された罪人は、被告「一色刑部等」ではなく、事件を訴え出た原告「高四郎左衛門等」であった。
[編集] 参考文献
- 喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」および年表(喜連川町誌編さん委員会編、喜連川町、1977年)
- 喜連川町史の「狂える名君」(明治44年編)
- 『徳川実紀』慶安元年7月3日条
[編集] 外部リンク
- 喜連川騒動における一考察・・古河系家臣団の陰謀説 喜連川町誌における幕府評定記述さえ怪しいものであった。史実の記述は「町誌執筆者内の旧喜連川家家臣の子孫、及び旧喜連川町による歪曲である」という観点から書かれた、独自の研究。
- 東京大学史料編纂所データベース SHIPS for インターネット検索ページ — 東京大学史科編纂所
修正依頼 | この項目は、資料が少なく、記事内容が検証できないため、修正・推敲を広く求めています。 |
カテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 正確性 | 出典を必要とする記事 | 修正依頼 | 歴史関連のスタブ項目