同盟市戦争
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同盟市戦争(どうめいしせんそう)とは、紀元前91年末に、都市国家ローマと同盟を結んでいたイタリア各地の都市国家や部族が、ローマ市民権を求めローマに対し蜂起した戦争の事である。
ローマはイタリア半島の他の都市国家、部族に対して同盟関係を用いることで支配を確立していた。イタリア半島の諸勢力はローマとの同盟のみが認められ、諸勢力同士の同盟は禁じられることでローマを中心とした放射線状の同盟関係によって結合していた。同盟下の各勢力はローマの影響を受けるものの各勢力ごとのレベルでの自治を保障されていた。こうした同盟関係はローマが盟主として行なった同盟外との戦争などを通じて強化されていき、第二次ポエニ戦争時にはイタリアを襲ったハンニバルは同盟間の離反を企てたが、彼の予想を裏切り一体となった同盟の強さを証明した。
しかしこうした関係もポエニ戦争後ローマが地中海に覇権を確立し「帝国主義的」な対外戦争を頻発させるに至って質的な変容が見られ始めた。かつては共通した利害の元に行なわれていた戦争もローマ市民権保持者により利益を産むものに変化し始めた。例えば対外戦争で獲得される属州はローマに属し、そこからの利益はローマ市民権保持者に分配された。またこうした戦争への参加もガイウス・マリウスの軍制改革以後ローマ市民は志願制に変更されていたのに対し、同盟諸国には兵力の供出が義務付けられていた。
このような状況の中で他の都市に住むローマ市民権を持たない人々の間にローマ市民権を要求する機運が高まっていた。
この要求をローマが拒絶した為に、比較的に貧しい地域に住む人々を中心にローマに対し叛旗を翻したのがこの戦いである。
「ローマ連合」は実質的には一つの国として機能していた為、戦争というより内戦に近い。
それまで同じ軍隊で生活をしていた将官や兵士同士が戦うようになったため、叛乱側もローマの戦法は知っており、各地で激戦となった。
紀元前90年の冬にローマは各勢力に妥協してローマ市民権を与える法案を執政官であるルキウス・ユリウス・カエサル(独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルの伯父)に出させた。この法案の可決以降戦線は縮小し、抵抗する者はいたものの紀元前89年には事実上終結した。敗者に対する寛大な処置が戦いの収束を加速したことも上げられよう。
この結果、イタリア各地にあった都市国家はローマを構成する地方都市となり、ローマも都市国家では無くなり領域国家として歩む事になった。