司馬氏
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司馬氏(しばし)は、氏のひとつ。著名な者に『史記』の著者司馬遷、晋(西晋・東晋)の皇族となった河内郡温県孝敬里のものがある。
司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。この司馬の職にあった者の子孫が司馬の氏を使うことが多い。
[編集] 由来と著名な一族
楚漢戦争で秦を打ち破った項羽により殷王に封じられるが、項羽に反旗を翻しその後劉邦に破られた司馬卬の家系が有名であり、以後の司馬氏は主に司馬卬の子孫たちが活躍することになる。
前漢において、司馬卬の末裔の一人の司馬談が三公に次ぐ大史令となった。司馬談の子司馬遷は友人の連座により宦官となるも『史記』の著者として高名となった。
後漢代に至り、司馬卬の末裔で司馬遷の遠縁である中国河内郡温県孝敬里の名門として家名を存続した司馬氏では、司馬防の男子8人の評判が高く、全員が字に「達」の字をもっていたため司馬の八達と呼ばれた。中でも、司馬懿が聡明さを以って知られ、曹操より腹心として迎えたいという要請を受けている。司馬懿は最初、曹氏に勝る名門としての誇りから仕官を断ったものの、後に求めに応じてその配下となった。魏の二代皇帝曹叡の代になると、蜀の諸葛亮による北伐が開始。司馬懿と諸葛亮の知恵比べとも言われる戦いが始まり、結局は諸葛亮の死により勝利する。曹叡が死に三代皇帝曹芳の代になり、クーデターを起こし権力者達を誅殺した上で魏の全権を握った。
司馬懿の孫、司馬炎は、魏の曹奐より禅譲を受けて晋を建国する。しかし、晋は皇族らの起こした八王の乱を契機として衰退する。これに乗じた匈奴の大首長劉淵が晋より自立して匈奴大単于を称する。匈奴の軍勢は、翌311年に劉淵の跡を継いだ劉聡が洛陽を陥落させ、懐帝を捕らえた(永嘉の乱)。 懐帝は生かされたものの劉聡により、酒宴で酒を注ぐ役をさせられると言う屈辱を与えられ、313年に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて長安にいた司馬鄴(愍帝)は即位して漢に抵抗するが、316年、長安が陥落して晋は滅亡した。愍帝は懐帝同様の扱いを受けたあと殺される。 皇族のうちただ一人逃げ延びた琅邪王・司馬睿(元帝)は江南に逃れ、愍帝が殺された事を受けて即位して建康に都して晋を再興した。江南に建国された晋を東晋それ以前の晋を西晋と呼ぶ。
しかし、東晋も廷臣の劉裕の力が強くなり、恭帝が420年にその地位を簒奪され滅んだ。これにより、晋の皇族としての司馬氏は滅亡した。