古語拾遺
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古語拾遺(こごしゅうい)は、奈良時代の文献である。官僚・斎部広成が大同2年(807年)に編纂したもので、全1巻からなる。
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[編集] 成立
807年(大同2年)2月13日に書かれたとされている。大同元年(806年)とする写本もあるが、跋(あとがき)に「方今、聖運初めて啓け・・・宝暦惟新に」とあることから、平城天皇即位による改元の806年(延暦25年・大同1年)5月18日以降であることが分かり、「大同元年」説は誤りということが分かる。
『日本後紀』の大同1年8月10日の条に「以前から続いていた「中臣・忌部相訴」に対する勅裁があった」とある。この条文から、「大同元年」論者は、『古語拾遺』をこの勅裁に先立つ証拠書類だと考えた。しかし、本文にはこの8月10日の出来事を前提に書かれているので矛盾することとなる。
[編集] 選者
斎部広成の伝記は、『日本後紀』の808年(大同3年)11/17の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかの事は分からない。ちなみのこの昇階は、平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。 ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、807年(大同2年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。
[編集] 目的
[編集] 愁訴陳情書説
元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族だった。しかし、大化の改新以降、同様に祭祀を司っていた中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)が政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。本書は、斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであると考えられる。
[編集] 調査報告書説
上記のような「愁訴陳情書説」が古くから唱えられていたが、現在では、朝廷が行なった法制整備のための事前調査に対する忌部氏の報告書であるという説が有力である。
伊勢神宮の奉幣使の役職をめぐって、忌部氏と中臣氏の間で、長年争われてきたが、大同1年8月10日に忌部氏に対する勝訴判決が出ている。本書が上程された大同2年2月13日は、この判決の後であり、「勝訴」のあとに陳情を出すのは不自然なことから、「愁訴陳情書説」は説得力を欠くことになる。
時の天皇である平城天皇は式(律令の施行規則)を制定する方針をもっていた。本書の跋に「造式の年」とあり、14年後の嵯峨天皇820年(弘仁11年)4月に『弘仁式』ができていることから、造式のための調査報告書だった可能性が指摘されている。 また同時期には『延暦儀式帳』が伊勢神宮から提出されているが、これも造式に備えた事前調査の一環だったといわれており、『古語拾遺』と同じ一連の流れに沿ったものだと言われている。
[編集] 内容
- 序
- 本文
- 神代古伝承
- 神武天皇以降の古伝承
- 古伝承に抜けた11カ条
- 御歳神祭祀の古伝承
- 跋
天地開闢から天平年間(729年~749年)までが記されている。古事記や日本書紀などの史書には見られない斎部氏に伝わる伝承も取り入れられている。
斎部氏は天太玉命の子孫とされていることから、天太玉命ら斎部氏の祖神の活躍が記紀よりも多く記されている。例えば、岩戸隠れの場面においては、天太玉命が中心的役割を果たしている。
[編集] 影響
『先代旧事本紀』『本朝月令』『政事要略』『長寛勘文』『年中行事秘抄』『釈日本紀』や伊勢神道の文献などに引用され、神典として重視されてきたことがわかる
[編集] 研究
1773年(安永2年)に奈佐勝皋(かつたか)が『疑斎』を著しているが、その中で 『古語拾遺』を「斎部氏の衰廃を愁訴したるに過ぎざるのみ」と批判している。これに対して、本居宣長は『疑斎弁』を著して、『古語拾遺』を弁護した。 近代以降では、1928年(昭和3年)に津田左右吉が『古語拾遺の研究』で執筆当時の歴史史料とはなるが、記紀以前のことを知るための史料としては価値がないと評価している。 しかし、これまでは記紀と比して重要性は薄いとされてきたが、重要性が再評価されつつある。
[編集] 刊行本
- 『古語拾遺』斎部広成撰、西宮一民校注(岩波文庫)
- 原本、注釈、解説から成る。
- 『古語拾遺講義 稜威男健(いつのをたけび)』栗田寛
- 明治時代の註釈書。