印旛沼
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衛星写真 |
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所在地 | 千葉県 | |||
面積 | 11.55 km² | |||
周囲長 | 47.5 km | |||
最大水深 | 2.5 m | |||
平均水深 | 1.7 m | |||
貯水量 | 0.0277 km³ | |||
水面の標高 | 1 m | |||
成因 | 河川による堰止湖 | |||
淡水・汽水 | 淡水 | |||
湖沼型 | 過栄養湖 | |||
透明度 | 0.7 m |
印旛沼(いんばぬま)は、千葉県北部、成田市、佐倉市、八千代市、印旛郡酒々井町、栄町、印旛村、本埜村にまたがる湖沼。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。
目次 |
[編集] 地理
利根川下流右岸、下総台地の中央に位置する。もともとは「W」字型のより大きい沼であったが、戦後の干拓によって2つの細い水路でつながった北部調節池(北印旛沼)と西部調節池(西印旛沼)に水域が分かれ、面積は半分以下に減少している。しかし、それでも湖沼としては千葉県内最大の面積を誇っている。
沼の南側沿岸には京成本線が走り、佐倉市街地も近い。東側には成田ニュータウンがあり、北西には千葉ニュータウンがある。また、2006年2月に起工された京成成田新高速鉄道線、北千葉道路は北印旛沼を横断する計画である。
東京都心から30~50kmと首都圏に位置するため)流域人口は多く、72.7万人に達する。これは琵琶湖、霞ヶ浦に次いで日本で3番目に多い。流域面積は487.18km²。
[編集] 水質
1960年代以降、流域人口の増加に伴い印旛沼の水質指標は悪化し、水質汚染は手賀沼に次ぐ全国有数のレベルになった(近年は手賀沼のほうが水質指標は若干良好である)。1980年代までの印旛沼は北部よりも西部のほうが水質が悪く、西部では1984年(昭和59年)にCOD年平均が過去最悪を記録(13mg/l)を記録するが、下水道整備などの対策の結果1990年ごろには8mg/lほどまで改善する。一方、北部の水質汚染はゆるやかに進み、1990年(平成2年)ごろには西部と同じレベルに達する。
その後は、西部、北部ともに再び水質が悪化し、1994年(平成6年)には北部でCOD年平均の過去最悪タイ(13mg/l)を記録してしまう。現在では多少は改善しているものの、依然としてCOD年平均が10mg/l前後であり、環境省の定める環境基準(印旛沼の場合3mg/l)には遠く及ばない。
[編集] 利用
印旛沼は、周囲の農業用水、京葉工業地域への工業用水、千葉市・習志野市・船橋市の飲料用水として供給されているほか、内水面漁業も行われ、コイやフナなどが漁獲されている(2002年(平成14年)の漁獲量は577t)。
1978年(昭和53年)より、印旛沼湖畔では例年8月に千葉県内でも有数の花火大会(佐倉・国際印旛沼花火大会)が催され、30万人を超す観客を集めてきたが、2005年(平成17年)からは佐倉市の財政難によって中止されている。[1]。
なお、付近一帯は、県立自然公園(印旛手賀自然公園)に指定されている。
[編集] 歴史
中世末までは印幡浦と称されていた。下総台地の侵食谷が地盤沈降により溺れ谷となり、その出口を利根川の運搬物(土砂など)がせき止めて形成されたものである。
古くから利根川の氾濫により沼周辺の村々は大きな被害を受けていたため、江戸時代に入って沼の水を江戸湾(現在の東京湾)へ流すという掘割工事と干拓事業(新田開発)が行われた。1724年(享保9年)、平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が着手したが失敗。次に、天明年間(1781年~1789年)老中田沼意次の時に計画され、工程の3分の2まで進捗したが1786年(天明6年)7月の大洪水と、田沼の失脚により中断された。
1843年(天保14年)老中水野忠邦により、天保の改革の一環として、沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が行われた。この工事の背景には外国の軍船に江戸湾口を封鎖された場合に、江戸へどのように物資を供給するかという、対外危機への意識の高まりがあった。つまり、那珂湊-利根川-印旛沼-検見川-江戸という新しい水路の建設である。このほか、洪水対策と新田開発(干拓)が目的だったという説もある。しかし、各藩の多大な財政負担と水野の罷免により、1844年(弘化元年)6月に中止となり、江戸期における工事はいずれも成功しなかった。
明治以降も織田完之による印旛沼干拓計画や、昭和放水路計画など、印旛沼の開発計画は次々と立てられたが、当初の治水・干拓を目的とした開発は、京葉工業地帯の造成と人口の増加に伴って利水を目的としたものへと変貌していく。印旛放水路(新川・花見川)が完成するのは昭和40年代になってからである。
1969年(昭和44年)、水資源公団の開発により、沼中央部に面積13.9km²の中央干拓地が造成され、約26km²あった沼の面積は2分の1以下に縮小している。
1994年(平成6年)11月25日、財団法人印旛沼環境基金は設立10周年記念式典で印旛沼憲章を制定した。
[編集] その他
佐倉市出身のロックバンド、BUMP OF CHICKENの楽曲、『続・くだらない唄』(『THE LIVING DEAD』収録)は、印旛沼をモチーフにして作られたと言われている。