南北問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南北問題(なんぼくもんだい)とは、1960年代に入って起こった先進資本国と発展途上国の経済格差とその是正をめぐる問題。豊かな国が世界地図上の北側に、貧しい国が南側に偏っていることから南北問題と呼ばれる。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 発生
19世紀末に、世界経済が成立し国際分業が広まると、農業国や工業国への分化が起きた。植民地は、宗主国によりモノカルチャー経済へと転換されるケースが多く、著しい特化が進展した。
第二次世界大戦終結から間もない頃は、農業によって経済を成り立たせている国も多く、そういった国の所得水準は工業国に比べ際立って低いわけではなかった。むしろ、商品作物の輸出などにより高い所得水準を実現している国もあった。
技術革新の進展などにより安価な代替商品が生まれたことから、いくつかの農産品は需要の減退に見舞われた(例:バングラデシュのジュートなど)。また、緑の革命や競争力のある工業国の農産業による輸出攻勢(アメリカやフランス)により、農産品の相対価格は著しく低迷。工業品輸出により発展を遂げる日本や西ドイツとの格差は次第に広がった。一旦、特化した経済は社会構造も特化しているため容易に転換できず、長期間にわたって格差が固定化されることとなった。
発展途上国の多くは資本輸入により工業化を試みた。しかし、国内市場の狭さ、国際競争力を欠いたことなどから失敗する国が多く、貿易赤字と対外債務を増加させる結果となる。その中でも東アジアの韓国・台湾・マレーシアや、中南米のメキシコ・ブラジルなどは一定の工業化を成功させた。
1970年代に入ると、資源保有国によって、自国の資源を先進諸国の資本の支配から取戻し、自国主権の下での開発を目指す資源ナショナリズムが盛んになった。特にオイルショックによって産油国の地位は高まった。一方で、工業化の途上にあった他の途上国の中には、このオイルショックにより重い対外債務負担を負う国も現れた。
1974年には国連資源特別総会において強まる資源ナショナリズムを背景に、NIEO(新国際経済秩序)の樹立に関する宣言が採択された。
1980年代は、1970年代の主に国際機関と外国の政府に対する重債務によってアフリカや中南米の国々は、元利返済に苦しみ、ハイパーインフレーションなどが発生し国民経済は混乱した。
その後、石油産出国や新興工業国(NIESやBRICsなど)は所得が向上していった一方、最貧国は停滞あるいは衰退したことから、中進国との格差が増大する南南問題が起こった。
環境問題が国際的な課題として捉えられるようになってからは、環境対策を求める先進国と、開発優先志向が強い途上国との間で利害が対立している。
[編集] 地域レベルでの南北問題
地球規模での南北問題と同様の意味合いで、比較的狭い地域における経済格差も南北問題と呼ばれることがある。
[編集] イタリアにおける南北問題
イタリアにおいてはミラノ・ジェノヴァ・トリノを中心とする北部の重工業地域(北イタリア)と一次産業を中心とする南部(南イタリア)の格差が問題となっている。南北で異なる歴史を持ち、経済的格差以外にも民族・言語・風習などに差異が見られ、問題を複雑にしている。1960年代にはバノーニ計画によってターラント製鉄所やアウトストラーダが建設され、南部での重工業発展と社会基盤の整備を図ったが、南北格差が縮小したとは言いがたい。南部の失業率は北部の4倍とも言われ、現在でも北部やドイツなどへ出稼ぎに行く農民も多い。一方北部では南部に税金を吸い上げられているという意識もあり、北部同盟のような南北の分離を唱える勢力を生み出すにいたっている。
[編集] イギリスにおける南北問題
イギリスにおいてはロンドンを始めとするイングランド南部と、工業地域としては斜陽化の進む北イングランド・スコットランド・ウェールズの経済格差を指す。なお、この場合は他の地域と違い、南部のほうが発展している。
[編集] 日本における南北問題
通常「南北問題」とは呼ばれないが、西南日本(九州、中国・四国地方(特に瀬戸内海沿岸))の先進性と東北日本(北陸・北信越・東北・北海道)の後進性、そして京都府南部(旧山城国)と北部(旧丹波国、旧丹後国)との格差も一種の南北問題といえる。 積雪の有無や、稲作について北日本では冷夏のため不作が多いなどの農業条件のほか、人為的な要因として、これらに伴う商品経済の歴史の有無なども原因として考えられる。