劉虞
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劉 虞(りゅう ぐ、?-193年)は、後漢の皇族で幽州の牧。字は伯安。子は侍中劉和。家系は劉氏。東海郡郯県の人。
[編集] 略要
[編集] 後漢の嫡流
皇族であった東海恭王の劉彊(光武帝の長男で前皇太子)の末裔に当たる。祖父の劉嘉は光禄勲まで務めた人物であり、父の劉舒は丹陽太守だったという。この名族の血筋もさることながら、劉虞は公正清廉で、支配地には必ず善政を敷く名君だったため、天下の名士や人民達からの人望を一身に集めていたと言われている。劉備もかつて彼に仕えていたといわれる。本来なら、後漢の皇統を継ぐべく家系の人物であり、天下の人望が厚かったのも頷けることである。また魏の重臣の劉曄は同族に当たるという。
中山太守の張純が烏丸の丘力居の下へ逃亡し、そこで弥天安定王を自称して後漢に対して謀反を起こすと、劉虞は幽州牧に任じられ、その鎮圧に当たることとなった。劉虞の人望は異民族の間でも厚かったため、丘力居は戦わずして劉虞に帰順し、張純は鮮卑族の下へ逃亡した。しかし劉虞の人望は鮮卑族の間でも厚く、ここで張純は殺されて、その首は劉虞に届けられることとなったのである。こうして、劉虞は己の人望だけで反乱を鎮圧してしまったとされる。
董卓の命によって後漢が長安に遷都した後、反董卓同盟の領袖である袁紹と韓馥らから、その人望の厚さを買われて皇帝として即位することを嘆願したが、そのことに一切野心が無い劉虞は、それをあくまで拒絶し続けた。そして宗家筋に当たる漢朝にいつまでも「栄光あれ!」を祈ったという。
だが、このように幽州で人望を持つ劉虞は、同じ幽州に勢力基盤を持つ群雄の一人であった公孫瓚にとっては邪魔な存在となった。193年、公孫瓚は劉虞に対して攻撃をかけた。劉虞は政治家としての人望はあったが、戦争は得手でなかったため、「白馬将軍」の異名を取り、異民族討伐で軍功を重ねていた公孫瓚の攻撃の前に敗れ、捕らえられてしまった。この時、人民の多くが公孫瓚に対して劉虞の助命を嘆願したが、公孫瓚は市場で劉虞を引き回しにした上に、「皇帝になれるほどの人物なら、天から雨を降らせることができるであろう。」という強引な要求をして、結局は雨が降らなかったため、処刑されてしまった。
199年に公孫瓚は袁紹に滅ぼされることになるが、その時に公孫瓚は多くの家臣から見捨てられている。その一因は、人望の厚かった劉虞の処刑を行なってしまったため、家臣団の間にも主君に対する不信が高まっていたためともいわれる。