劉封
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劉封(りゅうほう、190年?-220年)は、中国の三国時代、蜀漢の皇族武将で劉氏。子は劉林。
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[編集] 略要
[編集] その出目・生涯
正史三国志によると、元々は羅侯の寇氏の末裔で、長沙の劉氏の甥であり、劉備が彼の素質を見込んで自分の猶子として迎えたと記述されている。但し後漢書鄧禹伝によると、後漢の元勲である司空・高密侯の鄧禹の後裔だという。父・鄧震(鄧禹の長子)の後を継いだ鄧隲(または鄧騭、鄧禹の孫)は清廉の人物だった。彼の妹は先代の和帝の皇后であ外戚でもあった。だが、皇后鄧氏の養子の安帝に謀反を疑われた。鄧隲は太尉・楊震と共に天子よって死を賜り、その子の鄧鳳と共に自邸で自決を遂げた。そのために鄧隲の孫は降格され、鄧氏発祥の地である南陽付近の羅侯に転封されたとある。そのために、『寇氏』(鴻と同音とも)は、“鄧氏”の誤記ではないかとも言われる。また、通鑑(司馬光著)でも、「「寇姓」はあまり聞かない姓で明らかに誤りであり、同音の鄧姓が正しいであろう」と見識な歴史学者である司馬光は述べているという。仮にそうならば、劉封は鄧芝の遠縁ということになる。
彼は継弟の劉禅とは対照的で剛毅で勇猛果敢の人物だったといわれる。そして美男子だったという。213年に、猶父の劉備の益州攻略戦に参加して、彼は優れた統率力を発揮して武功を挙げて、副軍中郎将に昇進した。正史によると、当時の劉封は20余歳だったという(仮にそうならば、劉封は曹丕・曹植と同年代ということになる)。翌々年の215年夏5月に劉備が蜀の都である成都を平定すると、孟達と共に上庸の守備を命じられた。だが、劉封は義理の伯父である関羽と仲が悪かったこともあり、故意に関羽を見殺しにしたことから孟達と対立した。そのために孟達は魏に出奔してしまった上に、元は魏将であった配下の申耽・申儀兄弟が上庸で反乱を起こして劉封を追放してしまったため、劉封は止むなく猶父の劉備の下へ敗走することになった。
だが、劉備は関羽を見殺しにしたこと、上庸を失ったことなどを激しく咎めた。同時に諸葛亮は劉封の勇猛さを恐れていたという。いずれは自分が劉封によって禍に遭うと判断し、劉備に上奏して「わが君のご逝去後に、跡を継がれる太子禅さまでは継兄である封君(劉封)を統率されるのは極めて困難でありましょう。この機会に封君に死を賜りまするよう…これは前例である袁紹、劉表、曹操の息子達の家督争いの二の舞にしないための教訓ですよ」とはっきりと進言した。また、劉備自身も劉封の勇猛さでは支え切れない太子の劉禅の将来性を考慮した末に、決断を下して自決用の剣を劉封に渡し、こうして彼は非業の自決を遂げたという。
子の劉林は継叔父の劉禅から牙門将に任命され、蜀漢滅亡後河東郡に移住したという。
[編集] 演義などでの劉封
演義での劉封は、樊城の県令の劉泌の甥で、彼の器量に惚れた劉備の養子となった。それから、諸葛亮の指揮下で関羽の養子の関平(実際は関羽の庶長子)と共に大活躍していることになっている。同時に関羽が劉封が劉備の養子になったと聞いた時に「何故、寇封を養子とされたのですか?わが君には阿斗(劉禅)君がいるではありませんか」と不平を洩らしたという。後年に劉封はその関羽を孟達の進言で見殺しにした。そのことに怒った劉備が、劉封の処刑を部下に命じる。それ以前に、劉封は、魏に降った孟達から(身の安全のため)魏への投降を勧められていたが、怒って投降を勧めた使者を斬り、信書を破り捨てていた。そのことを知った諸葛亮らが、処刑の中止を進言するも、一足遅く劉封は処刑されていた。劉備は、一時の怒りで劉封を処刑してしまったことを嘆き悲しみ病に倒れたとされる。この時に劉封は「孟達の投降に従っておれば…」と洩らしたという。
また俗説では、呂布に追われた劉備がある邸宅に厄介になった。その時にその主人である劉備と同姓の劉安は、もてなす食料が無いことに気づき、そこで奥の厨房に行って、自分の妻を殺して、その肉をご馳走として劉備に差し出したといわれる。事の成り行きを知った劉備はさすがに驚愕したという。そこまで自分ために尽くした劉安の恩義に報いるために、その褒賞として劉安の息子である劉封を自分の養子に迎えた、とある。
[編集] 劉封処刑の謎
劉封の処刑は意外と謎に包まれている。正史三国志と演義では孟達と魏の軍勢に大敗し、成都に逃げ戻った劉封は劉備の怒りを買い処刑されるわけだが、正史と演義では劉封の処刑理由の内容にかなり相違がある。前者では諸葛亮が劉備に太子の劉禅では兄に当たる劉封が臣下に甘んじないので死を賜るように進言しているし、後者では逆に諸葛亮は劉封は孟達から送られた降服を勧める手紙を破り捨てていることを知り、劉封の助命を乞いている。この両者で共通しているのは劉備が劉封の刑死を聞いた時に嘆いたと記されている。
しかし、後漢書と通鑑と或いは蜀の地方史書である『華陽国志』(常據著)と『三国志集解』では、正史同様に諸葛亮が意欲的に劉封を粛清するように上奏しているし、劉備自身も自ら主導して劉封の処刑を命じているのである。これは前述の通りに袁紹・劉表・曹操の諸子達の家督争いの前例があった。当時のお家争いは後漢末から三国時代の特徴である。群雄のお家争いを見ていた劉備は当然のように、自分の後継者である劉封と劉禅の家督争いを懸念したことは想像に難しくない。その証拠に219年に劉備が漢中王と称した時に、劉備は真っ先に劉禅を世子に定めている。その翌年に魏に大敗して逃げ戻った劉封を即刻処刑しているのである。また劉封は劉禅よりも素質が優れていたのは事実のようであり、或いは劉封は関羽を見殺ししたように、劉備の意向に逆らう傾向があったようである。劉封が関羽との仲が険悪だったこともその事由の一つであろう。
さらに劉封の嗣子の劉林は蜀漢滅亡後、蜀漢の宗室の一員でありながら、劉禅一家に同伴せずに洛陽の北方の河東郡に移住しているのである。実際に劉封の死は謎に包まれているという。