劉伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉伯(りゅう はく 生没年不詳)は、中国の戦国時代末期から秦にかけての人。伯は字であり、諱は不詳。劉太公・劉媼夫妻の長男で、劉喜、劉邦の長兄に当たり、劉交とは異母兄弟である。
早くに亡くなったためその人となりについては全くと言っていいほど伝わっていない。しかし、その妻と劉邦との折り合いは相当悪かったらしい。
劉邦が沛で亭長をしていた時期の或る日、劉邦が実家に友人を大勢連れて来て、嫂(劉伯の妻)に、
「嫂さん、こいつ等に何か旨い物を食わせてやってくれよ。」
と頼んだが、彼女は、
「生憎だが無いよ。」
と言いながら、手に持っていた鍋の底をガリガリ(頡)と聞こえよがしに擦って、何も出さなかった。後で、劉邦がこの鍋の中を見ると羹がたっぷりと残っていたと言う。
時は流れ、劉邦が楚漢戦争で項羽を破り皇帝となると、一族功臣に爵位や領地を与えたが、劉伯の遺児である、劉信だけには何の音沙汰も無かった。これを不憫に思った劉太公が劉邦に、
「あの子も、お前の甥なんだから取り立ててやってくれないか。」
と、口添えした。
すると、劉邦は、
「それくらい分かっていますよ。でも、あの子の母親(前述の嫂)が私にした仕打ちを考えると、爵位も領地もくれてやる気がしないんです。」
と、かえしたと言う。
しかし、劉太公の口添えが功を奏したか、劉信にも爵位が与えられたが、その称号は羹頡侯(かんかつこう 羹頡は、羹の入った鍋を擦るの意味。転じて食い物をケチった女の息子である殿様。)。劉邦は嫂から受けた仕打ちを忘れることは無かったのである。