伊集院氏
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伊集院氏(いじゅういんし)は、薩摩島津氏の一族。2代当主島津忠時の七子、忠経の四子俊忠が伊集院地頭職を得たことから始まる。実際に「伊集院氏」を名乗ったのは俊忠の子、久兼からとも言われている。一族の数は島津氏支流の中でもだんとつに多く、家老に上り詰めた人物もいれば、足軽身分にまで身を落とした者まで多岐に渡る。明治時代の元勲である伊集院兼寛、伊集院五郎もこの支流の出身と思われる。
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[編集] 伊集院領主・伊集院氏
5代忠国の時、南北朝の乱が本格化する。当初忠国は島津宗家とともに北朝方にあったが、途中南朝方に加勢し島津宗家と争いを繰り広げている。島津宗家が足利尊氏とともに南朝方に加わって以降の動向は不明だが、長らく島津家の記録では「賊徒」とされていた。
島津宗家が九州探題の今川了俊と対立すると、6代久氏は了俊からの誘いを断り宗家側につき今川勢を破る。以後伊集院氏は島津家の中で大きな発言力を持つようになる。7代頼久の代には宗家7代当主島津元久の死後、嫡子煕久に宗家を継がせようとして元久の甥、久豊と対立。伊集院頼久の乱と呼ばれる大乱を引き起こした。両者は後に和解するが、8代煕久は所領を巡り再び島津宗家と対立する。宗家9代当主忠国に居城の一宇治城を攻められ煕久は肥後へ亡命。忠国・頼久・煕久の代には島津宗家と婚姻を重ね一時は宗家を凌ぐ領地を支配していた、と伝えられる伊集院家は没落する。
[編集] 島津家家臣・伊集院氏
煕久が亡命した後、弟の倍久は伊作家の島津忠良に従った。倍久の孫の忠朗より忠倉・忠棟の三代は代々島津家の家老として活躍。忠棟は16代当主義久の筆頭家老となり各地を転戦した。島津家が豊臣秀吉に降伏すると、忠棟は秀吉に気に入られ日向都之城に8万石の大封を得ている。しかしその行動に不満を覚えた島津忠恒によって誅殺。忠棟の子の忠真は父の死を知り所領の日向都城で反乱を起こすが(庄内の乱)、和解した後に一族ともども殺害された。
[編集] 江戸時代・伊集院氏嫡流
煕久は肥後へ亡命したが、孫の久雄の代に島津家へ帰参している。後に薩摩藩初代藩主家久の九子・十二子が入り家督を継いだ。所領は大隅桑原郡中津川村。
[編集] 系譜
忠経 ┣━┳━━┓ 宗長 忠光 俊忠 ┃ 久兼 ┃ 久親 ┃ 忠親 ┃ 忠国 ┏━━━━━━╋━┳━━┳━━┳━┳━━┳━┳━━┳━┳━━┳━┳━┓ 忠貞 久氏 久影 義久 忠季 俊久 忠治 久俊 久春 忠治 久光 久義 女 ┃ ┏━┳━━╋━┳━━┳━━┓ ┣━━━━┓ 久矩 景祐 景久 頼久 久勝 忠氏 忠兼 久慶 久昌 ┏━━╋━┳━━┳━━┳━┓ ┃ ┃ 徳久 煕久 継久 女 倍久 忠俊 久延 ? ┣━┳━━┓ ┣━┓ ┣━━┓ ┃ 経久 長久 季久 忠公 忠胤 久乗 久通 久道 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 久雄 忠朗 久宣 忠告 忠家 久治 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 忠増 忠倉 忠許 久重 久元 ┃ ┣━┓ ∥ 忠能 忠棟 春成 忠栄 ┣━┓ ┣━┳━━━┓ ∥ 久族 久近 忠真 小伝次 三郎五郎 久国 ∥ ∥ 松千代丸 久孟 ∥ ┃ 久朝 久盈 ┃ ┃ 久弘 久郷 ┃ ┃ 久矩 久備 ┃ ┃ 久馮 ? ┃ ┃ 久通 久文 ┃ ┃ 久房 久成 ┃ 久甫 ┃ 久彬 ┃ 久照 注)━は実子、=は養子 忠国の女は島津氏久の室・元久の母 頼久の女は島津久豊の室