代宗 (唐)
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代宗(だいそう、726年-779年、在位762年-779年)は唐の第八代皇帝。第七代皇帝・粛宗の長男。生母は呉氏。諱は豫で、前名は俶。
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[編集] 生涯
生母の実家の呉家は豪族だったが、唐に謀反を起こしたことで誅滅されたという。だが、祖父の玄宗は彼の素質を認めたために、広平王に封じられた。父の粛宗が皇帝として即位すると、兵馬大元帥に任じられ、郭子儀らと共に安慶緒に奪われていた長安や洛陽などを奪回した。このときウイグル(回紇)族を援軍として招き入れていたことが、後々の外患の一つとなった。また、安史の乱の残党がまだ残っていたため、河北三鎮などの節度使の力を借りなくてはならず、その節度使の権力を増長させてしまうことになった。
758年(乾元元年)粛宗の皇后と宦官の李輔国によって皇太子になり、762年、祖父・玄宗と父・粛宗が相次いで崩御すると皇帝として即位したが、政治の実権は李輔国に握られており、その専横を許すこととなった。堪忍袋の緒が切れた代宗はついに同じ宦官の程元振を要職に就けて、謀反の理由で李輔国を誅殺した。だが、結局程元振が代わりに権力を握るだけであった。そしてその後の宦官・魚朝恩の場合も同じようなものであった。このようなことが続いたために唐における宦官の権力が増大していく素地を築いてしまった。
対外面では763年(広徳元年)吐蕃の侵攻に遭って長安を一時的に追われるという有様であった。これは宦官が軍権をも握り、功を挙げた武将への論功を抑えるなど軍部を冷遇したため、辺境の防備が疎かになったためであった。
その後、唐の財政再建のために塩の専売化を初めとする様々な対策を図ったが、あまり効果は無かったという。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 睿真皇后沈氏
- 崔妃
- 貞懿皇后独孤氏
[編集] 子
- 李适(徳宗)
- 昭靖太子(鄭王)李邈
- 均王李遐
- 睦王李述
- 丹王李逾
- 恩王李連
- 韓王李迥
- 簡王李遘
- 益王李迺
- 隋王李迅
- 荊王李選
- 蜀王李遡
- 忻王李造
- 韶王李暹
- 嘉王李運
- 端王李遇
- 循王李遹
- 恭王李通
- 原王李逵
- 雅王李逸