郭子儀
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郭子儀(かく・しぎ、697年 - 781年)は中国、唐の中期の将軍。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の四代に使えた名臣。中国では史上屈指の名将といわれる。
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[編集] 出自
華州鄭県(現在の陝西省華県)の人。字は諱と同じく「子儀」。諡号は忠武。 身長160cmほど。家柄はあまりよくなく地方官僚の郭敬之の子として生まれた。
[編集] 軍の中枢へ
武挙(官僚を選ぶ科挙と同じく軍隊の幹部候補を選ぶ試験)に通り、左衛長史に任ぜられた。その後、振遠軍使、天徳軍使、安北都府使兼九原太守に累進した。
[編集] 再三、唐の国難を救う
粛宗の時、安史の乱を平らげて国難を救う功を挙げ、衛尉卿、霊武郡太守、朔方節度使、関内河東副元帥に任ぜられ、汾陽王に封ぜられた。
764年、前述の安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った僕固懐恩が宦官との対立から叛乱を起こし、太原に進攻したのを撃退した。
765年、吐蕃・ウイグルの叛乱を平定し、徳宗より尚父の号を賜り、大尉・中書令に昇進した。
[編集] 評価など
「中書令考二十四」を著す。
安史の乱を平定して同じく平定戦で活躍した李光弼と名を斉しくし、世に「李郭」と尊称された。寛厚な人柄で皇帝から庶民にいたるまですべての人々に敬愛されたという。また、外征からの帰還の際には皇帝が自らで迎えるなど、特別な待遇を受けていたことが史料からわかる。
旧唐書の伝には、 「権は天下を傾けるも朝(廷)は忌まず。功は一代を蓋いたるも主は疑わず。侈(贅沢)は人欲を窮(きわ)めたるも君子之を罪とせず。」 という最大級の賛辞が記されている。
郭令公と呼ばれ、ウイグル人などの異民族からも畏敬の念を持って遇せられた。
史書に言う。「子儀は勲徳並びに高く、司徒・中書令・汾陽王と為り、関内・河東の副元帥を以って河中或は邠州に鎮す。代宗之を礼重し、讒間行われず。朝政に預からずと雖も、夷夏皆其の威名に服す。唐室其の身を以って安危と為すこと殆ど三十年なり。徳宗尊んで尚父と為す。建中二年卒す。八子七壻皆顕れ、将佐の名臣たる者甚だ衆し。」(支那通史)
墓所:中華人民共和国陝西省咸陽市礼泉県
[編集] 関係者
[編集] 李白
李白は安史の乱では粛宗の弟の永王李璘に従ったが永王が叛いたためにその臣下であった李白もまた囚われの身となり、罪に服すこととなったが、郭子儀は李白の無罪を説いて李白の助命を請うた。そのため、死罪から流罪に軽減された。郭子儀は若年のころに、李白に命を救われたことがあったという。
[編集] 李光弼
郭子儀の後進の武将。元々、郭子儀の属官であった。李光弼は自己の能力に自信を持っていたので上官である郭子儀に対しても直言をして憚らなかった。郭子儀が李光弼の献策を採用しなかったので、李光弼は郭子儀を無能な上官であると思っていた。
実は、郭子儀は李光弼の才能を高く評価しており、その献策の妥当性も理解していたものの、ここでたやすく献策が用いられると、自尊心の強い李光弼が慢心し、さらなる能力開発を軽んじるであろうことを推測し、敢えて献策を採用していなかったのであった。
安禄山の叛乱が起こると、郭子儀は上奏して李光弼を一軍の将とするように進言した。それを知った李光弼は自身の不明を郭子儀に詫びて、ともに乱の鎮圧に全身全霊を傾けることを約した。世の人はこの二人を「李郭」と併称して名将ぶりを讃えた。
[編集] 子孫
- 郭子晞……郭子儀の子。
- 郭曜……郭子儀の子。
- 郭鋒……郭曜の子。
- 郭曖……郭子儀の六男。妻は代宗の娘。四字熟語「不痴不聾」の逸話の登場人物。「二人がけんかした際、曖が「父親が天子だからと威張るな。俺の親父はいつでも天子になれた。天子など頼まれてもならないわい」と言ったことを妻は怒って代宗に告げた。代宗は取り合わなかったが、郭子儀は郭曖を連れて代宗に処罰を願い出たが、「『痴ならず聾ならざれば、家翁とならず』と言うではないか。夫婦喧嘩などほっておけ」ととがめなかった。(典拠『資治通鑑』巻224)」という逸話が残っている。代宗の心の中には、唐が復興できたのは郭子儀のおかげであるという意識があったからである。
- 懿安郭皇后……(?-848年)郭曖の娘。夫は広陵王李純。穆宗李恒の母。
- 郭崇韜……(?-926年)字は安時。代州雁門の人。郭子儀の後裔と称した。李克用、李存勗父子に仕えて中門使に至った。李存勗が皇帝となり後唐を建国した際には、兵部尚書・枢密使となるなど重用された。後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、侍中・成徳軍節度使となった。位は人臣を極めた。権勢を奪われるのをおそれて、魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏した。「時務利害二十五条」を説いて、宦官を排斥した。同光三年(925)、魏王李継岌に従って蜀を攻め、東北面行営都招討使をつとめた。蜀が平定されると、李継岌の猜疑を受けた。また、同時に宦官に誣告されたため、それを信じた李存勗は激怒して宦官馬彦珪を蜀に下し、郭崇韜・廷晦の父子を成都で斬らせた。政戦両略の才あり、王佐の才ありといわれ、郭子儀の再来といわれたが、最期は異なった。
- 廣澤尊王……(922年2月22日-?)本名は郭洪福または、郭乾。民間宗教の創始者。
- 郭侃……(?-1277)モンゴル帝国前期の漢人将軍。「極西の神人」と呼ばれた名将で祖父・郭宝玉が金朝を見限りチンギス・ハーンに仕えたことがわかっている。モンケの時代に1252年からのフラグの西征に参加した。アラムートの攻略、カシミール征服に参加し抜群の功績を挙げた。1258年のバグダード攻略戦ではチグリス川に架橋し敵前渡河を敢行した。またこの戦いで逃走をしたアッバース朝のカリフを捕らえるなどの武功に恵まれた。その後もシリアなどに侵攻して連戦連勝で小アジアをほぼ平定した。中国人の中で最も西まで遠征した将軍であるといえる。
[編集] 伝説
[編集] 織女の約束伝説
銀川という田舎にまだ郭子儀がいたころ、7月7日の夜、窓辺で外を見ていると、にわかに明かりに照らされて、郭子儀が夜空を見上げると、天空を馬車が通り過ぎるところで、馬車の椅子に腰掛けた天女が下界を見下ろしているのが見えた。郭子儀はこの天女は織女であろうと思い、「長寿と富貴を授けたまえ」と祈りました。織女は微笑んで、「富貴は思いのまま、長生きもするであろう」と郭子儀に言い、再び天へ昇っていき姿は消えました。この伝説の内容の通り、郭子儀が85歳という長寿と王侯となり3000人の家来と多くの有能な武将に恵まれ、八人の息子たちは朝廷の大臣や将軍となり、七人の婿も同じく太守などの官吏として栄達を果たし、50人の孫たちに恵まれました。また郭子儀の家には金銀財宝が使いきれないほどたまりるという富貴を得たので、7月7日の夜に天空に向かって祈りを奉げる習慣ができました。
[編集] 日本に伝わる郭子儀を題材にした芸術作品
- 丸山応挙作 重要文化財「郭子儀図襖絵」 天明8年(1788年) 兵庫県香美町・高野山真言宗亀居山大乗寺所蔵
- 丸山応挙作 「郭子儀祝賀図」(1775年) 三井文庫所蔵
- 野村芥堂作 「郭子儀」明治32年(1899年) 京都市立芸術大学所蔵
- 田村宗立作 「郭子儀像」安政5年(1858年) 京都市立芸術大学所蔵
- 八重樫豊澤作 「南極寿星・郭子儀」 岩手県立博物館所蔵
- 高村光雲作 「郭子儀」 講談社野間記念館所蔵
- 鼎春嶽作 「郭子儀図」 東京国立博物館所蔵
[編集] 関連
子孫の店:参考