井口資仁
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[[Image:||井口 資仁]] |
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守備位置 | 二塁手 |
所属球団 | シカゴ・ホワイトソックス |
背番号 | 15 |
日本でのキャリア | 1997年-2004年 |
アメリカでのキャリア | 2005年- |
誕生日 | 1974年12月4日 |
身長 | 178 cm |
体重 | 88 kg |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
出身校 | 青山学院大学 |
年俸 | $3,250,000(2007年) |
出身地 | 東京都西東京市 |
前所属球団 | 福岡ダイエーホークス |
MLBデビュー年 | 2005年4月4日 |
ニックネーム | グッチ |
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井口 資仁(いぐち ただひと 1974年12月4日 - )はシカゴ・ホワイトソックスに所属するプロ野球選手(内野手)である。本名は「忠仁」。代理人はロッキー・ホール。
目次 |
[編集] 略歴
- 身長・体重:1m78cm、88kg
- 投打:右/右
- 血液型:O型
- 出身地:東京都田無市(現 西東京市)
- 球歴・入団経緯 国学院久我山高 - 青学大 - 福岡ダイエーホークス(1997 - 2004) - シカゴ・ホワイトソックス(2005 - )
- プロ入り年度・ドラフト順位 1996年(1位)
- 背番号:7(ダイエー)→15(シカゴ・ホワイトソックス)
- 英語表記:IGUCHI
- 守備位置:二塁手、遊撃手
[編集] 球歴
- 1993年 国学院久我山高から青山学院大学へ進学。青山学院大学では同期の澤崎俊和(元広島)、清水将海(ロッテ-中日)、倉野信次(ソフトバンク)らと共に全日本大学選手権優勝を始め多くの輝かしい実績を残した。個人としても東都大学リーグ三冠王やリーグ記録となる1シーズン8本塁打などを記録。大学通算本塁打数は24本で、現在も破られていないリーグ記録である。
- 1996年 アトランタオリンピック野球日本代表として銀メダルを獲得し、「20世紀最後の大物内野手」として争奪戦が繰り広げられたが、ダイエーを逆指名。ドラフト1位指名を受けてダイエーに入団(背番号7)
- 1997年 ルーキー初試合満塁ホームラン。2割前半しか打てず主に下位打線を打ったが、1998年には21本塁打を放つなど広角に打てる長打力もあり「恐怖の9番打者」と言われた。
- 1999年 9月25日、マジック1で迎えたこの試合で決勝ホームランを放ちダイエーホークス初のリーグ優勝、日本一に貢献。
- 2000年 シーズン中に肩を負傷、手術を行い、長期離脱。日本シリーズで復帰するが、守備に定評のある鳥越裕介の1軍定着により、長男に将斗(しょうと)と名づけるほどにこだわりを持っていた遊撃手のレギュラーを剥奪され、遂には二塁手にコンバートされてしまう。優勝旅行にも参加せず、オフに登録名を本名の「忠仁」から「資仁」に変更して飛躍を誓った。
- 2001年 期待を裏切り続けた「20世紀最後の大物内野手」も遂に覚醒し、強力打線の3番に定着。打率は.261ながら史上3人目の30本塁打40盗塁を達成。44盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。強肩、俊足を生かしたセカンドの守備も評価されベストナイン、ゴールデングラブ賞にも輝いた。ちなみにこの年、井口の他に小久保裕紀が44本塁打、松中信彦が36本塁打、城島健司が31本塁打し、パ・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初である。
- 2003年 前年は打率.259など期待を裏切ったが、城島健司と共に金森栄治スコアラーに指導され、「より引き付けて打つ打法」に変更。これまでの粗いイメージを覆し5試合連続猛打賞、1試合4二塁打の日本タイ記録を達成するなど打ちまくった。1番村松有人、2番川崎宗則とともに盗塁を量産、終盤に村松が骨折で離脱したこともあり再び盗塁王に輝く。さらに4番松中、5番城島、6番ペドロ・バルデスとともに史上初の100打点カルテットを形成するなど、3番としてダイハード打線の中軸を担う。最終的に打率.340、27本塁打、109打点、42盗塁。二度目のベストナイン、ゴールデングラブ賞にも選ばれまさに八面六臂の活躍であった。3年ぶりのリーグ制覇、4年ぶりの日本一に大きく貢献し、日本シリーズ優秀選手にも選ばれた。
- 2004年 打率.333、24本塁打、89打点と前年並みに打ちまくりレギュラーシーズン1位に貢献したが、チームはこの年導入されたプレーオフ制度の前に敗れ去りリーグ優勝を逃した。このオフ、契約書の特約条項に基づき自由契約選手となり、MLB挑戦を表明
- 2005年 シカゴ・ホワイトソックスに入団。2番打者に定着し、移籍1年目でいきなりワールドシリーズ出場、世界チャンピオンに。日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリング獲得。しかし伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に出場してリングを獲得したのは井口が初めてである。オフに2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出される。当初は選出を歓迎する旨のコメントを出していたが、メジャーでクリンナップを打つという夢に向けての調整をしたいとして出場を辞退。代わりに宮本慎也が選出された。
[編集] プロでの成績(2006年度までの通算成績)
年度 | チーム | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | ダイエー | 76 | 217 | 31 | 44 | 6 | 3 | 8 | 80 | 23 | 3 | 32 | 67 | .207 |
1998 | ダイエー | 135 | 421 | 58 | 93 | 18 | 4 | 21 | 182 | 66 | 12 | 36 | 121 | .221 |
1999 | ダイエー | 116 | 370 | 38 | 83 | 15 | 1 | 14 | 142 | 47 | 14 | 47 | 113 | .224 |
2000 | ダイエー | 54 | 162 | 21 | 40 | 9 | 2 | 7 | 74 | 23 | 5 | 17 | 29 | .247 |
2001 | ダイエー | 140 | 552 | 104 | 144 | 26 | 1 | 30 | 262 | 97 | 44 | 73 | 117 | .261 |
2002 | ダイエー | 114 | 428 | 64 | 111 | 14 | 1 | 18 | 181 | 53 | 21 | 37 | 84 | .259 |
2003 | ダイエー | 135 | 515 | 112 | 175 | 37 | 1 | 27 | 295 | 109 | 42 | 95 | 81 | .340 |
2004 | ダイエー | 124 | 510 | 96 | 170 | 34 | 2 | 24 | 280 | 89 | 18 | 56 | 90 | .333 |
計 8年 | NPB | 894 | 3175 | 524 | 860 | 159 | 15 | 149 | 1496 | 507 | 159 | 393 | 702 | .271 |
2005 | CWS | 135 | 511 | 74 | 142 | 25 | 6 | 15 | 224 | 71 | 15 | 53 | 114 | .278 |
2006 | CWS | 138 | 555 | 97 | 156 | 24 | 0 | 18 | 234 | 67 | 11 | 62 | 110 | .281 |
計 2年 | MLB | 273 | 1066 | 171 | 298 | 49 | 6 | 33 | 458 | 138 | 26 | 115 | 224 | .280 |
計 9年 | 日米通算 | 1167 | 4241 | 695 | 1158 | 208 | 21 | 180 | 1954 | 645 | 185 | 508 | 926 | .273 |
太字はリーグ最多
[編集] 主なタイトル
- 盗塁王2度(2001年、2003年)
- ベストナイン3度(2001年、2003年、2004年)
- ゴールデングラブ賞3度(2001年、2003年、2004年)
[編集] メジャー移籍
2004年にメジャーに移籍する際、契約における特約条項を利用している。これは、「中内正オーナーあるいは高塚猛オーナー代行が退任した場合、井口が希望すれば自由契約選手とする」という覚書が前年の契約更改の際に存在した為。高塚オーナー代行が9月末に辞任したため、井口は自由契約選手となりメジャーに移籍した。「高塚負の遺産」の一つとされる。
移籍後は、シーズン当初より内野手として活躍。10月、チームがアメリカンリーグチャンピオンに輝き、日本人選手としては、新庄剛志、松井秀喜、田口壮に次ぐ4人目のワールドシリーズ出場選手となる。レギュラーとして全試合先発出場。日本人選手初のワールドチャンピオンメンバーとなった。
2006年には18本塁打を放ったが、これはアメリカンリーグの二塁手では最多であった。
[編集] 変わったこだわり
ウォシュレット(温水洗浄便座)に異常なこだわりを持ち、毎年新製品に買い換えている。「活躍の秘訣はこれです」とバラエティ番組でわざわざ公言するほどである。