三笑亭可楽
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三笑亭 可楽(さんしょうてい からく)は、落語家(噺家)の名跡。当代は9代目。
江戸時代よりその名が続く。名の由来は「山椒は小粒でひりりと辛い」から。
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[編集] 初代
初代は最も古い職業落語家(噺家)の一人とされる。1798年7月に三人のアマチュアの噺家と共に江戸の稲荷神社で寄席を開いた。同年同月、岡本万作によってもう一軒の寄席が開かれており、この二軒が日本最初の寄席と考えられている。
弟子にはそれぞれ初代の林家正蔵(当時の表記は「林屋」)や初代三遊亭圓生がいたと考えられている。
[編集] 二代目
[編集] 三代目
三代目は2人いて2人目は二代目の可楽の養子
[編集] 四代目
同じく二代目の可楽の養子
[編集] 五代目
京都では、上方で活躍した2代目笑福亭吾竹の弟子である4代目笑福亭吾竹が名乗る。
[編集] 六代目
本名、中村勘三郎(1846年 - 1924年8月18日)。6代目桂文治の弟子。1913年6代目を襲名。伊藤博文のそっくりさんで売ったという。
[編集] 七代目
本名、玉井長之助(1886年1月31日 - 1944年4月12日)。俗に「玉井の可楽」。2代目談洲楼燕枝に入門。1916年真打。1926年7代目可楽を襲名。3代目柳家小さんに傾倒。好事家からの評価が高かった。
[編集] 八代目
本名、麹地元吉(きくち もときち 1898年1月3日 - 1964年8月23日)。東京下谷黒門町の出身。1915年初代三遊亭圓右に入門して「右喜松」。のち「三橘」と改名。7代目翁家さん馬(後の8代目桂文治)門下に移って「さん生」。1922年「翁家馬之助」で真打。さらに6代目春風亭柳枝の門に転じて「さん枝」、さらにその後5代目柳亭左楽門下となり「春風亭柳楽」と改名。1940年6代目春風亭小柳枝、1946年8代目可楽を襲名。師匠と名前をたびたび変えていることからも窺える通り、長く不遇であった。
芸風は極めて地味で動作が少なく、一般大衆受けする華やかなものではなかったが、比較的少数ながら熱烈な愛好者がいた。独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口で、江戸前の世界を余すことなく描き、江戸落語というものの一つの極限まで達したと評された。また、「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙であった。酒豪であり、また酒が出てくる噺を好んで演じた。「らくだ」「二番煎じ」「反魂香」「今戸焼」「うどんや」などの演目を得意とした。
弟子に、三笑亭夢楽、三笑亭笑三、9代目(当代)可楽、三笑亭茶楽がいる。
[編集] 九代目(当代)
本名は石上吉男(いしがみ よしお 1936年7月21日 - )。茨城県鹿嶋市出身。落語芸術協会に所属、理事を務める。出囃子は『勧進帳』。趣味のハワイアン、フルートは協会員バンドのアロハマンダラーズにも活かされている。
経歴
一門弟子
- 三笑亭可龍
- 三笑亭可女次