三好長治
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三好 長治(みよし ながはる、天文22年(1553年) - 天正5年(1577年))は三好義賢の嫡男。
1562年、父の死により家督を相続する。しかし幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けた。長治は有名な分国法新加制式を定めたり、足利義栄を一時は将軍として擁立するなど有能な武将であったが、織田信長の上洛により京を追われて阿波に撤退した。
しかし1570(元亀元)年の野田・福島の陣では管領細川家の嫡流・細川六郎(信良・昭元)を大将に担ぎ宗家である三好義継除き、ほとんどの三好一門を結集して織田信長との戦いを挑み石山本願寺や朝倉・浅井の決起などもあり信長を破る。しかしその後和睦して本国阿波に撤退した。
1573年、重臣の長房と不仲になって対立し、これを同年、異父兄である細川真之と協力して攻め滅ぼした。しかし1575年、何を考えたのか長治は阿波全土の国人や領民に対して法華宗を強要したのである。これにより国人や領民の支持を失い、翌1576年には真之とも対立し、1577年、長宗我部元親の助力を得た真之と阿波荒田野で戦い、敗死した。
辞世の句は文武両道の名門三好氏らしく見事なものであった。
三好野の梢の雪と散る花を 長き春(長治)とやは人のいふらむ