三好義賢
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三好 義賢(みよし よしかた、大永7年(1527年) - 永禄5年3月5日(1562年4月8日))は三好元長の次男で三好長慶の弟。安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。 幼名は千満丸。之康、之虎、元康とも名乗り、物外軒実休と号した。官位は豊前守。子には三好長治、十河存保がいる。
兄・長慶は細川家の当主・細川晴元に仕えたが、義賢はその分家で阿波国の守護である細川持隆に仕えた。四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。
義賢は長慶の弟たちの中でも特に優れた智勇兼備の武将で、伊予や讃岐、和泉など各地に転戦している。1553年には弟・一存とともに持隆を見性寺に殺害し、その子・細川真之を傀儡の守護として擁立し、阿波の実権を掌握した。
1560年、義賢は兄とともに畠山高政や安見直政らと戦い、これに大勝する。しかし2年後に畠山高政の反撃を受け、和泉久米田の戦いで戦死した。このとき、義賢は鉄砲で射殺されたらしいが、これは名のある戦国武将たちの中では最初の例であると言われている。
また、義賢は豊かな教養人で茶の湯に対しても造詣が深く、武野紹鴎、千利休、今井宗休、津田宗達、北向道陳らと茶会を行っている。また、織田信長に劣らぬ茶器好きで、約50点も所持していたといわれている。明から輸入された唐物や「三日月」という茶壷に対して、三千貫文もの金をつぎ込んだという。