ロングアイランドの戦い
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ロング・アイランドの戦い (Battle of Long Island)(別名ブルックリンの戦い / Battle of Brooklyn)は1776年8月22日から同年8月30日にかけて、現在のニューヨーク市ブルックリンを主戦場にして戦われた、アメリカ独立戦争の主要な戦闘の一つ。 この戦闘で、ジョージ・ワシントンの率いる大陸軍は大敗し、これが元でパリ条約の翌年(1784)にイギリス軍がニューヨーク市を明け渡す迄、ニューヨーク市とロングアイランド島の主要部分はイギリス軍の支配下となった。
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[編集] 会戦に至るまで
ボストンを撤退したハウ(Howe) 将軍の率いるイギリス軍は、ハリファックス(現カナダ)で体制を立て直した後、王党派勢力の強いニューヨーク市に向かったが、既にジョージ・ワシントンの率いる大陸軍がニューヨーク市に布陣していた。 ジョージ・ワシントンの採った主な布陣行動として
イギリス軍は、1776年7月2日にスタテン島(Staten Island)に9000の兵力で上陸。元々、親植民地だったハウ将軍は、ジョージ・ワシントンに数度公開書簡を送り、植民地側との和解を求めたが、ジョージ・ワシントンは植民地議会が彼に与えた地位の記載が書簡宛名に無い事を理由に受け取りを拒否。この行動に植民地議会が賛同した為、開戦は決定的となった。
イギリス軍は本国にも援軍を要請、およそ二万の本国部隊(これらの部隊名の多くは未だに現存する精兵達)が投入された。
[編集] 戦闘
Harifaxと英国本国よりの援軍が到着したイギリス軍は総勢3万に迫る規模となり、この内の20000~22000を1776年8月22日にロング・アイランドへの渡河上陸作戦に投入した。残りのイギリス軍、及びイギリス海軍はニューヨーク市の大陸軍を牽制した。 大陸軍側は、正面の海軍と対岸の軍に気を取られており、また後背に十分な警戒態勢を敷いてなかった為、イギリス軍の上陸が完了するまで気がつく事は無かった。
本格的な戦闘は、8月の27日にハウ将軍が大陸軍後方左翼への攻撃を命じて始まった。 大陸軍はおよそ11000が現在のブルックリンに陣地を築き、展開していたが、正面上陸に対応した三方を水と湿地帯に囲まれる布陣であり、制海権を持つイギリス軍に正面を牽制されつつ後背左翼(現在のFlatbush Road) を突かれた為短時間で戦線は崩壊した。
最大の激戦地は現在のProspect ParkとGreen-Wood Cemetery一帯である。
しかしながら、大陸側との和解に未だに希望を抱いていたハウ将軍は、大陸軍のブルックリン陣地自体の襲撃を行わず包囲。 28日迄に包囲陣形を敷き、大陸軍の前方数百メートルにまで陣地を築いた。
[編集] 戦闘の終結
8月29日の深夜から30日の明朝にかけて、ニューヨーク港ブルックリン側は濃霧、及び雨となり、それに乗じて地の利がある大陸軍はブルックリンの包囲網を脱出し、マンハッタン島に退却した。
イギリス軍の戦死/負傷者 377
大陸軍の戦死/負傷者/捕虜 1719
[編集] 歴史的意義、評価など
ロング・アイランドの戦いに至る過程である、ハウ将軍と、ジョージ・ワシントンとの書簡のやり取りは、争乱の穏便な政治解決を完全に不可能にした物であり、直後の7月4日の独立宣言により、もはや戦闘以外の道は残されなくなった。
また、ロング・アイランドの戦いは、制海権を持たない大陸軍の水辺、及び島での戦いの不利と指揮官の稚拙さを露呈した。
ニューヨーク市は、1776年9月15日にイギリス軍の上陸により同日中に陥落。マンハッタン島北端のフォート・ワシントン (Fort Washington) も、ホワイトプレインズの戦い後の11月16日に陥落し、ニューヨーク湾の支配権は完全にイギリス軍の物となった。
ニューヨーク州の一連の戦いは、軍人としてのジョージ・ワシントンの評価に一石を投じるものとして、パリ条約後も様々な形で尾を引いた。すなわち、敗戦の責任は配下の将に押し付けるが、善戦した際の功績は自らの物とするという評価である。これが、戦争中の1780年のベネディクト・アーノルド (Benedict Arnorld) 将軍の裏切りと、後のニューヨークでの配下だったチャールズ・リー (Charles Lee) 将軍が決闘に巻き込まれる遠因となったとされる。
また、イギリス軍側は、ハウ将軍の民意を懐柔したい方針と本国の将兵の消耗を嫌うための追撃掃討戦を積極的にしない方針が明らかになり、大陸軍側は緒戦でこれを大いに利用した。
カテゴリ: 1776年 | アメリカ独立戦争の戦闘